1975年、《ゴッドファーザー・パート2》に続く企画として、再び《地獄の黙示録》が持ち上がった。

「オリジナル脚本を書くには最低半年はかかる。しかし、《地獄の黙示録》なら手直しだけで企画が進められる。それでゴー・サインを出したんだ」(コッポラ)。

 それだけではないだろう。名声と富を手にした今、この未曾有の企画に挑戦したかったに違いない。あのオーソン・ウェルズが断念した企画を実現するんだと。しかし、コッポラには超大作を指揮するだけの準備はまだ出来ていなかった。

「コッポラは直感で演出する。現場で即興的に生まれてきたものを映画に取り入れる。こうした方法で作られた映画は往々にして面倒に陥る」(ジョージ・ルーカス)。

 つまり、コッポラは撮影直前になって思いつきで脚本を書き直すタイプの演出家なのである。従って、綿密なスケジュールの下に製作されるべきスペクタクル巨編には向かないのだ。

「彼から毎朝配られる予定表には時々「シーン未定」という記入があった。私たちは何を撮るか判らずに集合した」(フレデリック・フォレスト)。

 とにかくも《地獄の黙示録》は総予算1300万ドルでスタートしてしまった。ゾエトロープ社は外部の干渉を恐れて資金を自社調達、コッポラは私財をすべて抵当に入れた。



 キャストはカーツ役にマーロン・ブランド、これを追うウイラード大尉にはハーベイ・カイテルが決定した。
 ブランドの待遇は破格であった。拘束3週間でギャラは300万ドル。手付けとして100万ドルが支払われた。

 ロケ地にはフィリピンが選ばれた。米国陸軍はベトナム戦争映画への協力を拒否、コッポラはマルコス大統領に協力を要請し、マルコスの懐に多額の金が振り込まれた。
 こうして撮影にはフィリピン軍のヘリ部隊を使えることになったのだが、ロケ地ルソン島では共産ゲリラの活動が激しさを増していた。噂ではゲリラは十数キロに迫っている。撮影隊は図らずしも、映画とそっくりの状況で働かなければならなかった。
 ロケ地も劣悪ならば軍の協力も劣悪だった。フィリピン空軍にはまともなヘリが27機しかなかった。だから、撮影中でも必要に応じて呼び戻された。
 それだけではない。撮影には毎日、新顔のパイロットが送られてきた。これでは昨日の打ち合わせなど意味をなさない。NGが続き、数万ドルがゴミ箱へと消えた。



 

 1976年2月から始められた撮影が早々に遅れた理由はもう一つある。撮影1週間にして主役のハーベイ・カイテルが解雇されたのである。
 カイテルの解雇劇の真相は長年に渡って謎であった。しかし、最近になってカイテルがこれに答えている(以下《プレイボーイ》誌のインタビューより)。

「俺は自分を誰にも売り渡したくなかった。ただそれだけさ」。
「具体的には?」。
7年間拘束の契約書だ」。
「サインしなかった?」。
「だからその後、映画に出てないだろう?」。

 新鋭俳優として注目されていたカイテルのハリウッドでのキャリアはこれで終わった。《レザボア・ドッグス》でブレイクするまでは、彼はインディペンデントで糊口をしのぐことになる。