ボストン絞殺魔
The Boston Strangler (アメリカ)



階段に空き缶を並べて防犯対策

 1962年6月14日、マサチューセッツ州ボストンの古びたアパートの3階で、アンナ・スレッサーズ(55)の遺体が発見された。ほとんど裸で、両足が大きく広げられていた。後頭部には傷があった。そして、首にはバスローブの紐がきつく巻きつけられていた。
 化粧台の引き出しが物色された形跡があったが、貴金属は手つかずだった。被害者は強姦されてはいなかったが、ワインボトルによる性的な陵辱を受けていた。

 2週間後の6月30日、ニーナ・ニコルズ(68)の遺体がほとんど同じような状態で発見された。首はストッキングで絞められて、性的に陵辱されていた。
 2つの殺人には新聞発表されていない共通点があった。
 1つは、蝶結びである。首を絞めた後、あごの下で蝶結びにしている。
 もう1つは、性器の露出である。被害者の足が大きく広げられて、入室する者の眼に真っ先に入るようにアレンジされている。「さあ、見てやってくれ」とでも云わんばかりなのだ。
 同じ日に、ヘレン・ブレイク(65)の遺体もほとんど同じような状態で発見された。蝶結び、性器の露出も同じだった。
 3人目の犠牲者の発見で、本部長はようやく事態の深刻さに気がついた。
「何ということだ。キチガイが街をうろついている」

註:実は、この2日前の6月28日にメアリー・マレン(85)の遺体も発見されていた。しかし、彼女には絞殺の痕跡がなかったので、自然死と扱われてしまった。高齢であったために、襲われると同時にショック死したようである。


 

 8月19日にアイダ・イルガ(75)の遺体が発見されると、ボストン市内はパニックに見舞われた。『ボストン・ヘラルド』紙は市民に冷静な対処を呼び掛けた。曰く、
「統計学的に見て、貴女が犠牲者となる確立は限りなくゼロに近いのである」
 しかし、そんな呼び掛けも虚しく、8月30日にはジェーン・サリバン(67)の遺体が発見された。彼女にとっては統計学など無意味だった。このたびは犯人は警察を挑発するかのようなサインを残していた。例の如く露出された性器には、ほうきの柄が突っ込まれていたのである。

ボストン・ストラングラー」の暗躍は、市民生活に多大な影響を及ぼした。
 まず、ガスや電気の検針員、郵便や電報の配達員、市場調査員、政治家の運動員等は仕事が出来なくなった。家の中に入れてもらえないのである。大打撃を被ったのは訪問販売員だ。エイボン等、訪問販売が主体の化粧品会社は売り上げが激減した。
 そもそも、ボストンという街は当時、米国主要都市の中で唯一人口が減少している「斜陽都市」であった。これではいかんということでボストン復興の掛け声が上がった。マサチューセッツ州選出の上院議員、ジョン・F・ケネディが大統領に就任したことだし、ここは一つ大きく出ようということになった。かくして立ち上げられたのが、超
高層オフィスビルの建設や政府機関本部の誘致、スラム街の再開発等からなる総工費10億ドルの大プロジェクト「ニューボストン」である。満を持して発表されたのは1962年6月14日のことであった…。
 6月14日。そう。最初の犠牲者、アンナ・スレッサーの遺体が発見されたその日である。市民の願いを託した大プロジェクトはトップニュースの座を奪われてしまった。全世界が注目したのは「ニューボストン」ではなく「ボストン・ストラングラー」だったのである。

 警察に助力を求められた心理学者のグループは、犯人の年齢を18歳から40歳までに絞り込んだ。彼らのプロファイルによれば、犯人は「母親を憎悪している若い白人男性」。被害者が高齢の白人女性ばかりだからである。警察もその線でこれまで捜査を進めて来た。
 ところが、これを覆す事態が勃発した。12月5日に殺害されたソフィー・クラークはまだ20歳だった。しかも黒人で、強姦されていた。これも初めてのことだった。
 さあ、これまでの捜査がふりだしに戻ってしまった。
 12月31日に殺害されたパトリシア・ビセットも捜査の誤りを裏づけた。彼女もまだ23歳だった。
 翌1963年3月9日に殺害されたメアリー・ブラウンは69歳だったが、5月6日に殺害されたビヴァリー・サマンズは23歳だった。9月8日に殺害されたイヴリン・コービンは58歳だったが、11月23日に殺害されたジョアン・グラフは23歳だった。
 ちなみに、この前日の11月22日、ケネディ大統領が遊説先のテキサス州ダラスで暗殺された。

 JFKの死によりアメリカの夢は破れ、「ニューボストン」の夢も破れて年は暮れた。明けて1964年1月4日、メアリー・サリヴァンが殺害された。まだ19歳だった。私は今これを書きながら、許せない思いでいっぱいだ。またしても、ほうきの柄が性器に突っ込まれていたのだ。そして、左足の指の間には1枚のカード。
「ハッピー・ニュー・イヤー」
 彼女が「ボストン・ストラングラー」の最後の犠牲者となった。



ピーター・フルコス

 壁にぶち当たった警察は、藁にもすがる思いで1人の男に助けを求めた。オランダの「超能力探偵」ピーター・フルコスである。 事件に憂慮する資産家が資金提供を申し出て「こういう人がいるから」と紹介したのだ。
 この事件を映画化した『絞殺魔』は、フルコスの驚異の能力をいろいろと紹介している。例えば、裏返した写真に触るだけで何が写っているのかを当てたとか、発見された遺体の状況を自らが床に寝っ転がって再現してみせたとか、遅れて来た刑事と握手するだけで遅れた理由(恋人と会っていた)を当てたとか。「こいつ
はすごい」ということで半信半疑の警察は彼を信じたというのである。
 懐疑論者の私としては、この話を鵜呑みにすることはできないが、とにかくフルコスは犯人をこのように「スキャン」した。
「体重は59〜63キロの痩せた男で、身長は170〜173cm、鷲鼻で、左腕に傷のある男。親指に問題があり、何か靴に関係がある」
 容疑者リストの中にどんぴしゃりの男がいた。 婦人靴の訪問販売員をしていたその男は、体重59キロ、身長171センチ、鷲鼻で、左腕に傷があり、片方の親指が曲がっていた。
 テレビ朝日の番組『TVのチカラ』ならば、ここで「おおっ」と小躍りするところだろうが、結局、その男は犯人ではなかった。それでもフルコスは「いいや、その男が真犯人だ」と生涯主張し続けたそうだ。しかし、彼の「能力」を信じているコリン・ウィルソンでさえ、
「彼が何故これほど見事な失敗を喫したかは、いぜん謎である」
 と、その失敗を認めている。

「超能力探偵」のとんだ茶番につきあわされ、解決の糸口すら見つけられない警察は焦りに焦っていた。そんな時、リー・ベイリーという弁護士から電話があった。この電話が端緒となり、事件の全貌が明らかとなった。
 アルバート・デサルヴォ。彼こそが「ボストン・ストラングラー」の正体である。



アルバート・デサルヴォ

 アルバート・デサルヴォは1931年9月3日、ボストンに生まれた。父親はアル中だった。妻や子供は毎日のように殴られた。そして、売られた。父親は彼と2人の妹を9ドルでメイン州の農家に売り飛ばしたのだ。
 間もなく農家から逃げ帰った彼は、今度は盗みを教えられた。万引きに始まり、空き巣に強盗とそれはエスカレートしていった。
 彼にとってセックスは日常だった。父親は売春婦を連れて来ては、子供たちにそれを見せつけたのだ。そんなわけだから初体験は6歳の時だ。相手はなんと姉だった。

 17歳で陸軍に入隊したデサルヴォは、ドイツに5年間赴任した。軍隊生活は水が合ったようで、軍歴は概ね良好だった。ボクシングを始めたのもこの頃で、欧州駐留軍ミドル級チャンピョンになったこともある。やがて、現地の娘イルムガルトと結婚、1955年には娘が生まれた。
 彼が最初に性犯罪を起こしたのは、妻が妊娠中のことである。9歳の少女をいたずらしたのだ。母親は世間に知られることを嫌って告訴を取り下げた。事件は公になることなく、1956年には名誉除隊で復員した。

 とにかく、ヤリたくてヤリたくて堪らない男だった。射精の直後でもヤリ続けることが出来た。妻は1日6度の性交が毎日続くことに辟易し、次第に拒むようになった。しかし、デサルヴォはヤリたくてヤリたくて堪らない。悶々とする彼の眼に『ボブ・カミングス・ショー』というテレビ番組が飛び込んで来た。それは、モデル志望の女性のオーディションを行い、身体のサイズを測量するというお下劣番組だった。
「俺もこんなことがやってみたい」
 翌日には早速やっていた。 学生街をうろついて女性ばかりのアパートを見つけるや、モデルのスカウトマンだと偽ってサイズの測量を始めたのである。口が達者で、それなりに二枚目だったデサルヴォはなかなかうまくやっていた。時にはそのまま意気投合し、ベッドインすることもあったという。しかし、こんな破廉恥三昧が長続きする筈もなく、1960年3月17日に逮捕された。裁判では不法侵入の罪だけを問われて、懲役2年を宣告された。
 つまりデサルヴォは、この時に強制猥褻についてはお咎めなしだったために「性犯罪者」にファイルされなかったのである。捜査線上に彼の名前が挙がらなかったのは、そういうわけなのだ。

 11ケ月服役し、仮釈放されたデサルヴォは、とにかくヤリたくてヤリたくて堪らなかった。ところが、妻には拒絶されてしまう。
「真人間になるまではおあずけよ」
 ならば、外でヤるよるほかにない。真人間になる筈がない。11ケ月の間に溜まりに溜まった精液は烈火の如くほとばしった。気がついたら、彼は「ボストン・ストラングラー」になっていた。


 1964年11月6日、アルバート・デサルヴォは逮捕された。但し「ボストン・ストラングラー」としてではない。別件の強姦事件で逮捕されたのだ。彼は警察が「グリーン・マン」と呼んでいた連続強姦事件の犯人でもあったである(常に緑色の作業服を着ていたことから、そのように呼ばれていた)。被害者は300人に及ぶとみられていたが、デサルヴォは「1000人は下らない」と豪語していた。
 信じがたい話だが、警察は「ボストン・ストラングラー」と「グリーン・マン」が同一人物だとは思ってもみなかった。「ボストン・ストラングラー」が基本的には強姦していなかったからである。インポだと思われていたのだ。だから「歩くバイアグラ」のデサルヴォは容疑者から外されていた。またしても捜査機関のミスが彼に味方をしたのである。

 翌1965年2月、デサルヴォは「精神異常の疑いあり」と診断されて、ブリッジウォーター精神病院に収容された。そこでジョージ・ナッサーという殺人犯と同室になった。
 デサルヴォの話は朝から晩までおまんこばかりだったが、或る日、こんなことを訊いてきた。
「なあ、ジョージ。もしも或る男が窃盗で裁判にかけられて、後から13件も銀行を襲っていたことが判ったら、いったいどうなると思う?」
 その時は気のない返事で応じただけだったが、後から考えれば考えるほどこの質問は意味深だ。ひょっとしたらこいつが「ボストン・ストラングラー」とちゃうか? 懸賞金がかけられていることを思い出したナッサーは、弁護士のリー・ベイリーに報告した。半信半疑のベイリーが面会すると、デサルヴォはあっさりと「ボストン・ストラングラー」であることを告白した。
 どうしてこんなにあっさりと告白したのだろうか?
 思うに、もう辞めたかったのだろう。だけど、警察は一向に気づいてくれない。ならば、自分で告白するよりほかにないのである。

 デサルヴォが「ボストン・ストラングラー」であることは疑いようのない事実である。彼は犯人しか知らない事実を知っていたし、犠牲者が11人ではなく13人であることも知っていた。このことは警察さえも知らなかった(追加されたのはメアリー・マレンとメアリー・ブラウンの2件。メアリー・ブラウンは死因が刺殺だったため、「ボストン・ストラングラー」の被害者にはカウントされていなかった)。
 しかし「ボストン・ストラングラー」は物証をほとんど残していなかった。デサルヴォの自白が、ほとんど唯一の有力な証拠だった。弁護士(リー・ベイリーが担当)は法廷で自白することを禁じるだろう。そこで異例の司法取引が行われた。
 検察はデサルヴォを「グリーン・マン」の件でしか訴追しない。その裁判において、弁護人は責任能力を争う。そして、責任能力が否定された場合に限って「ボストン・ストラングラー」としての自白を認める…。
 つまり、デサルヴォは「ボストン・ストラングラー」ではなく「グリーン・マン」として裁かれたのである。そして、責任能力が認められ、「ボストン・ストラングラー」については触れることがないままに、終身刑が宣告された。

 1973年11月26日、デサルヴォはウォルポール刑務所の独房で冷たくなって発見された。心臓が6回も突き刺されていた。犯人は囚人の1人だと思われるが、それが誰であるかは判っていない。

註:デサルヴォが「ボストン・ストラングラー」としては裁かれることなく死亡したことから、冤罪説が今日でも根強く主張されている。しかし、彼が「犯人しか知らなかったこと」を知っていたことは確かであり、だからこそ弁護士は大胆な司法取引をしたのである。彼が「ボストン・ストラングラー」であることはほぼ間違いないと思われる。
但し、最後の犠牲者、メアリー・サリバンに関しては、遺体に残されていた精液のDNA鑑定から、デサルヴォの犯行ではなかったことが有力になりつつあるようである。


参考文献

『現代殺人百科』コリン・ウィルソン著(青土社)
『連続殺人紳士録』ブライアン・レーン&ウィルフレッド・グレッグ著(中央アート出版社)
週刊マーダー・ケースブック11『ボストンの絞殺魔』(ディアゴスティーニ)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)
『世界犯罪百科全書』オリヴァー・サイリャックス著(原書房)
『SERIAL KILLERS』JOYCE ROBINS & PETER ARNOLD(CHANCELLOR PRESS)


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