ジョージ・チャップマン
George Chapman
a.k.a Seweryn Antonowicz Klosowski  (イギリス)



ジョージ・チャップマン

 ジョージ・チャップマンは極めて飽きっぽい男だった。本名はセヴェリン・アントニオヴィッチ・クロソフスキーというポーランド人である。母国では外科医を志望していたが、なかなか資格が取れないので1888年に英国に渡った。そして、ロンドンのイーストエンドで理髪店の見習いを始めた。同じハサミを握る仕事だが大違いだ。

 やがてポーランド時代のカミさんが後を追ってやって来た。ところが夫は同郷のルーシー・バデルスキーと同姓中。カミさんはぷんすか怒って帰ってしまう。その後、ルーシーを連れてアメリカに渡るも、1892年にロンドンに舞い戻った時にはアニー・チャップマンという女を連れていた。
 チャランポランな男である。

 アニーから姓を貰って「ジョージ・チャップマン」になるや彼女とはバイバイ。すぐさま小金を貯めていたメアリー・スピンクと懇ろになり、彼女の出資で理髪店を始めた。ところが、さっぱりなので店じまい。お次は場末でパブを始めた。ここまでが殺人者になるまでのチャップマンの経歴だが、いやはやなんとも、飽きっぽい男である。

 1897年の末、イザベラが突然の腹痛に倒れて、そのままクリスマスの日に死亡した。チャップマンはすぐさまパブの女給、ベッシー・テイラーと暮らし始める。ところがそれも長くは続かなかった。1901年2月にベッシーもまた突然の腹痛に倒れて、数日後には死んでしまったのだ。
 チャップマンはすぐさま女給のモード・マーシュと暮らし始める。ところがこれまた長くは続かなかった。1902年10月にモードは突然の腹痛に倒れて、数日後には死んでしまう。どうして彼と暮らす女は次から次へと死んで行くのか? 不審に思った医師は死亡診断書を書くことを拒否した。検視解剖に回されたモードの遺体からは案の定、アンチモンが検出された。

 モード・マーシュ殺害の容疑でのみ起訴されたチャップマンは、1903年4月7日に処刑された。彼の犯行であることは間違いないが、よく判らないのはその動機である。典型的な「青髭型」の犯行なのだが、被害者の2人は女給であり、金が目的とは思えないのだ。飽きたから殺したとしか思えない。それとも殺害行為自体にサディスティックな魅力を感じていたのだろうか?

 なお、チャップマンは今日ではむしろ「切り裂きジャックの容疑者の1人」として知られている。切り裂きジャックが暗躍していた1888年に彼は現場のイーストエンドで理髪店の見習いをしており、現に容疑者として取り調べを受けていたからだ。彼が逮捕された時、アバーライン主任警部が、
「遂に切り裂きジャックを捕まえたぞ」
 とコメントしたと伝えられている。
 ちなみに、彼に「チャップマン」の姓を与えたアニー・チャップマンは、切り裂きジャックの犠牲者であるアニー・チャップマンとは別人である。


参考文献

『連続殺人紳士録』ブライアン・レーン&ウィルフレッド・グレッグ著(中央アート出版社)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)
『切り裂きジャック』コリン・ウィルソン+ロビン・オーデル著(徳間書店)


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