アンドレイ・チカティロ
Andrei Chikatilo (ソビエト連邦)



アンドレイ・チカティロ

 かつて共産圏は「連続殺人は資本主義社会特有の現象」と宣伝していた。だから、グラスノスチによってアンドレイ・チカティロの存在が西側に報道された時は誰もが呆れた。
「なんだよ。いるじゃんかよ」
 しかも、52人も殺し、食べていたのだ。法廷では檻の中に入れられて、まるで「実在したレクター博士」である。しかし、彼はレクターとは異なり、凶暴ではない。檻に入れられていたのは、被害者の遺族から彼を守るためなのである。

 アンドレイ・チカティロは1936年10月16日、ウクライナのヤボロチノエという農村に生まれた。それはウクライナ大飢饉の直後のことだった。スターリンは農民たちの抵抗を抑えて農地の共有化を実現するために、穀物を押収し、人為的に飢餓を作り出したのだ。農民たちは食料をめぐって殺し合い、そして、飢えを凌ぐために人肉を食べた。チカティロの兄も食べられた。チカティロはこの話を4歳の時に聞かされた。その衝撃は、彼の生涯に少なからず影響を与えた。

 1941年のドイツ軍の侵攻により、チカティロは多くの死を目撃した。手足を吹き飛ばされた屍体を目の前にして、彼は初めて性的な興奮を覚えた。その時に芽生えたサディズムは『若き赤軍兵士』という小説により助長された。彼は、ドイツ軍兵士を拷問する赤軍兵士と己れを重ね合わせ、嗜虐的な空想に耽った。

 しかし、素顔のチカティロは極めて内向的な少年だった。極度の近視にも拘らず、馬鹿にされるのを嫌い、眼鏡をかけないでいた。そのために間抜けな失敗をやらかして、余計に馬鹿にされた。異性に対しても奥手で、まともに話すことさえ出来なかった。そうしたハンディキャップを乗り越えるために勉学に勤しんだが、モスクワ大学の受験には失敗した。
 3年の兵役を経て郷里に帰ったチカティロは、その生涯を決定づける事件に遭遇した。どうにかデートに誘って恋愛関係に持ち込んだ女性に「あいつはインポだ」と土地の女たちに云い触らされてしまったのだ。彼は逮捕後に苦々しく述懐している。
「私は恥ずかしくてたまらなかった。はらわたが煮えくり返る思いだった。あの女を殺して八つ裂きにすることをあれこれと想像した」
 この時、彼の内なるサディズムとセックスが明確に融合したのである。



逮捕直前のチカティロ

 24歳になったチカティロは、忌わしい思い出しかないウクライナを棄ててロシアに移り、ロストフで電話修理工の職に就いた。しかし、新天地でも惨めな生活は相変わらずだった。頭の中はアレのことでいっぱいだったが、恋人は疎か友だちさえも作ることが出来なかった。そして、仕事中にオナニーをしているところを見つかり、同僚たちの笑い者になった。
 見るに見かねた妹の紹介で、3つ年下のフェオドーシャと結婚した。初夜は惨敗。しかし、1週間後には挿入可。そして、2人の子供をもうけたが、チカティロ曰く、
「妻とのセックスは子供を作るためのものであり、楽しんだわけではない」
 彼が夢想したセックスとは、女を制圧し、虐待することだった。しかし、それは妻にはできない。欲求不満は次第に募っていった。

 1971年、チカティロが通信教育を通じて教師の資格を得た時は、妻は鼻高々だった。共産圏では教職の社会的地位は高いのである。しかし、その実際は惨澹たるものだった。チカティロは初日から生徒に野次られ馬鹿にされた。同僚の教師からも疎んじられた。それでも教職を辞めなかったのは、可愛い生徒たちがいるからだ。チカティロは女子寮に忍び込むと、覗き見しながらオナニーに耽った。そして、1973年5月には遂に手を出してしまった。居残りを命じた14歳の女子生徒に襲い掛かったのである。
 未遂に終わったとはいえ、どエライことをしでかしてしまったチカティロであるが、意外にも免職されることはなかった。連座制を怖れた学校側が事件を揉み消してしまったのである。転任されるに留まったチカティロは、そこでも男子寮に忍び込んだ。そして、生徒たちに見つかって、冷やかされ馬鹿にされるのであった。

 この頃のチカティロは、既にオナニーだけでは満足できなくなっていた。町の外れにあばら屋を買い、そこに売春婦や浮浪者を誘い込んでは、いろいろと頑張っていた。しかし、インポは相変わらずだった。生徒を襲った時のあの興奮(彼は襲い掛かった時点で既に射精していた)を懐かしく思った。
 1978年12月22日、仕事を終えたチカティロは帰り道でエレナ・ザコトノワ(9)に声をかけた。そして、例のあばら屋に誘い込んだ。彼女の死体は2日後に近くの川で発見された。これが彼の最初の犯行である。ところが、警察が逮捕したのはアレクサンドル・クラフチェンコという前科者だった。自白を強要された彼は有罪となり、1984年に処刑された。



裁判ではチカティロは檻に入れられた

 遂に殺人を犯してしまったことへの動揺と警戒心から、チカティロはしばらくは静かにしていた。しかし、教職をクビになり、已むなく工場の補給担当者(生産に足りない物資を調達してくる係らしい)の職についてから6ケ月後の1981年9月3日、ラリサ・トカチェンコが第2の犠牲者となった。森の中で絞め殺し、屍体を切り裂きながら射精した。そして、我を忘れて屍体の回りを踊り狂い、雄叫びをあげた。
「パルチザンになった気分だった」
 かくして、ソビエトが生んだ最悪の連続殺人鬼、アンドレイ・チカティロは完成した。以後、12年に渡り、50人以上の女性や子供を手にかけた。犠牲者はめった刺しにされ、眼球をくり抜かれた。そして、内臓や性器を切り取られた。食べるためだった。その場で生のまま口にすることもあれば、持ち帰って調理することもあった。

 この恐るべき食人鬼が12年もの間、野放しにされていたのには様々な理由があった。
 まず、「連続殺人は資本主義特有の病理現象」とする共産党の宣伝がその1つとして挙げられる。連続殺人が理論的にあり得ない社会において、子供たちは大人に対する警戒心をまったく教えられていなかったのだ。そして、警察も連続殺人を想定していなかった。ようやく連続殺人事件であることに気づいたのは30人も殺された後だったのである。
 チカティロの職業も理由の1つである。補給担当者という仕事は物資を探し求めて移動する。チカティロはその先々で犯行を繰り返していたのだ。縦割り型の警察機構では全貌を把握することは不可能だった。
 また、当時のソビエトの警察にはコンピューターが導入されていなかった。ファイルはすべて手書きによるカード式で、捜査ミスがあれば容易に隠蔽できた。警官自体も、犯人よりも食料を探すことに熱心だった。こんなへなちょこの警察では、無差別の広域連続殺人事件など解決できる筈がなかった。
 更に、チカティロの特殊な体質も災いした。彼の精液は別の血液型だったのだ。1984年9月14日、挙動不審のチカティロが連行されたが、血液がA型だったので釈放された。現場に残されていた精液はAB型だったのである。



死刑を宣告された時のチカティロ

 チカティロが遂にお縄になったのは1990年11月20日のことである。それはゴルバチョフ政権下におけるグラスノスチ(情報公開)政策と、警察機構の立て直しの賜物であった。「連続殺人犯がいる」という情報が行き渡り、警察がちゃんと機能していれば、遥か以前に逮捕できたのである。事実、チカティロはこれまで何度も職務質問を受けていた。そして、最終的な逮捕も、殺害現場付近での職務質問がきっかけであった。日頃から警察のことを、やれ権力の犬だの、やれ公僕だのとバカにしがちな我々であるが、警察がまったく機能していない世の中が如何に恐ろしいかを本件は物語っている。

 法廷でのチカティロは、なんかもう、どうでもよくなっていた。ポルノ雑誌を持ち込んで、これ見よがしにはためかせた。傍聴席からは怒号が飛んだ。
「けだもの!」
「キチガイ!」
「ひとごろし!」
 このままでは遺族に殺されかねない勢いなので、彼のまわりには檻が張られた。それでも怯まないチカティロは、チンポコを出して、振って叫んだ。
「ほれ、この役立たずを見てやってくれ! こんなフニャチンで何ができるっていうんだ!?」
 法廷を攪乱し、グダグダ作戦に持ち込もうとしていることは明らかだった。しかし、いくら民主化したからといって、当時のソビエトでこの作戦は無理である。合計52件の殺人で有罪を宣告されたチカティロは、1994年2月14日に処刑された。


参考文献

『連続殺人紳士録』ブライアン・レーン&ウィルフレッド・グレッグ著(中央アート出版社)
週刊マーダー・ケースブック5(ディアゴスティーニ)
『続連続殺人者』タイムライフ編(同朋舎出版)
『カニバリズム』ブライアン・マリナー著(青弓社)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)
『世界犯罪百科全書』オリヴァー・サイリャックス著(原書房)
『食人全書』マルタン・モネスティエ著(原書房)
『SERIAL KILLERS』JOYCE ROBINS & PETER ARNOLD(CHANCELLOR PRESS)


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