ドナルド・ヒューム
Donald Hume (イギリス)



記者の前で犯行を再現するヒューム


ヒュームの告白「私がセティーを殺した」

 1949年10月21日、エセックス州ティリンガムの海沿いの湿地で鴨猟をしていた男が、浅瀬に打ち上げられたフェルトの包みを発見した。彼はそれを舟に拾い上げて開封したことを後悔した。中には革紐で後ろ手に縛られた、首と脚のない男の胴体が入っていたからである。

 検視に当たったフランシス・キャンプス博士は、胸部に残る数カ所の刺し傷(これが直接の死因だと思われる)の他に、肋骨が何本も折れていることに注目した。それは以前に診た、パラシュートが開かなかったパイロットの遺体にそっくりだった。

「遺体は飛行機から海に投棄された可能性がある」

 警察は早速、エルストリー飛行場のユナイテッド・サービス・フライング・クラブに問い合わせたところ、10月5日にドナルド・ヒュームという男が軽飛行機を借りていたことが判明した。機に乗り込む際、彼は2つの包みを抱えていた。また、その翌日にもサウスエンド飛行場で軽飛行機を借りていた。その時も大きな包みを1つ抱えていた。
 如何にも怪しい男である。
 実は警察はヒュームのことをよく知っていた。ケチな盗みや喝りを繰り返していた小悪党だったのだ。一方、指紋から割り出された被害者のスタンリー・セティーも堅気ではなかった。盗難車の故売屋だ。彼は10月4日から行方不明になっていたが、その日に車の代金として1000ポンドの小切手を受け取っていた。犯行の動機はおそらく、その小切手だろう。

 尋問されたヒュームは当初は関与を否定していたが、やがて前言を翻して、このように供述した。

「マックとグリーニー、それにボーイと呼ばれる3人の男に、ガソリン偽クーポンの版型を遺棄してくれと頼まれたんだ。包みを2つ棄てて戻ってくると、3人は荷物をもう1つ追加して待っていた。前金の50ポンドの他にあと100ポンド支払うというので、二つ返事で引き受けた。後でバラバラ死体が見つかった時に電話があり、他言は無用と釘を刺された。それでようやく大変なことに巻き込まれたことに気づいたんだ」

 半信半疑の警察は、謎の3人組の行方を追う一方で、ヒュームのアパートを捜索した。そして、カーペットの下からおびただしい量の血痕を発見した。かくして、ヒュームはスタンリー・セティー殺害の容疑で起訴された。

 ところが、ヒュームは驚くべき幸運で死刑をすり抜けてしまう。まず、当初の判事が裁判中に急病で倒れ、やり直し裁判では陪審員の意見が合わずにお流れに。切羽詰まった検察は司法取引に応じ、軽微な事後従犯の罪で手打ちとあいなったのである。

 1958年に釈放されたヒュームは『サンデー・ピクトリアル』紙に「俺が殺ったが逃げ切った」との記事を売り、1万ポンドを受け取るや否やスイスに渡って贅沢三昧の日々を送った。その後、すぐに金欠となり、1959年1月30日にチューリッヒの銀行に押し入る。これが大失敗に終わり、逃走中にタクシー運転手を射殺して逮捕された。ところが、彼はこのたびも死刑にはならなかった。スイスでは死刑が廃止されていたのである。

 終身刑を宣告されたヒュームであったが、1976年に精神に異常を来したと診断されて英国に強制送還、あのグレアム・ヤングがいたこともあるブロードムアに収容された。
 面白い男である。


参考文献

『殺人紳士録』J・H・H・ゴート&ロビン・オーデル著(中央アート出版社)
週刊マーダー・ケースブック33(ディアゴスティーニ)
『死体処理法』ブライアン・レーン著(二見書房)
『世界犯罪百科全書』オリヴァー・サイリャックス著(原書房)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)


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