コンスタンス・ケント
Constance Kent (イギリス)



コンスタンス・ケント

 1860年6月30日のことである。ウィルトシャー州トロウブリッジでフランシス・ケント(4)が誘拐された。そのことに最初に気づいたのは乳母のエリザベス・ゴフである。午前5時頃に目を覚ました時に子供部屋から消えていたのだ。ところが、彼女は奥様が連れて行ったのかと思った。そのために大騒ぎになったのは午前7時になってからだった。
 やがて屋外便所から幼児の遺体が発見された。喉が深く切り裂かれており、頭が胴体から離れそうになっている。脇腹にも深い刺し傷がある。極めて非情な犯行である。
 検視解剖の結果、犯行は深夜と推定された。内部の者の犯行である可能性が高い。そこで浮上した最有力容疑者が16歳のコンスタンス・ケントだった。

 コンスタンスは家長たるサミュエル・ケントと先妻との間の子供だった。彼女の母親メアリー・アンはサミュエルとの間に10人の子をもうけたが、1844年にコンスタンスを生んでまもなく精神を病み始めた。するとサミュエルは乳母のメアリー・ドリュー・プラットに手をつけた。そして、1952年にメアリー・アンが死亡するや否や籍を入れたのである。殺されたフランシスは後妻との間にもうけた5人の子のうちの2番目だった。

 サミュエルは後妻の子をたいそう可愛がった。先妻の子がこれを面白く思う筈がない。中でも特に不快感をあらわにしたのがコンスタンスだった。頻繁に我が身の不遇を嘆いていた。12歳の時には男装して、弟を連れて家出したこともある。行動力があることは証明済みなのだ。
 更に、コンスタンスの3着の寝巻きのうち1着がなくなっていた。実は事件の直後に、血にまみれた寝巻きがボイラーの後ろから発見されていたのだが、どさくさに紛れてなくなってしまった。それがコンスタンスの3着目の寝巻きではなかったか?
 コンスタンスは逮捕され、1週間に渡って尋問されたが、彼女は否認し続けた。第二容疑者として疑われた乳母のエリザベスも同様である。かくして事件は迷宮入りになるかと思われた。

 時は流れて1865年、ブライトンの修道院で修行をしていたコンスタンスは、院長にフランシスの殺害を告白した。そして、訴追され、死刑を云い渡されたが、ヴィクトリア女王の特赦により終身刑に減刑されている。

 コンスタンスが全面的に罪を認めたので、深くは追求されなかったが、彼女の証言には矛盾点がいくつかある。例えば、凶器は父の部屋から盗んだ剃刀だけだと答えたが、脇腹の刺し傷はそれでは不可能なのだ。彼女は誰かを庇っているのだろうか? 彼女が明かさない以上、真相は謎のままである。


参考文献

『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)
『LADY KILLERS』JOYCE ROBINS(CHANCELLOR PRESS)


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