グレアム・ヤング
Graham Young (イギリス)



グレアム・ヤング、お気に入りのポートレート


少年時代のグレアム・ヤング

 グレアム・ヤングは人を愛さなかった。愛したのは毒薬のみである。その魅力に取り憑かれた彼にとって、人はモルモットに過ぎなかったのだ。そんな彼にも尊敬する人物がいた。それはヴィクトリア朝時代の毒殺魔、ウィリアム・パーマーだった。

 グレアムは1947年9月7日、ロンドンのニーズデンで生まれた。母親のマーガレットは妊娠中に胸膜炎を患い、出産の3ケ月後に結核で死亡した。幼いグレアムは父フレッドの妹ウィニーに預けられた。3年後に父がモリーと再婚すると、グレアムと、祖母に預けられていた長女のウィニフレッドは、一つ屋根の下で暮らすようになった。

 グレアムは極めて聡明な少年だったが、友達と遊ぶことは好まなかった。図書館で一人本を読むことを好んだ。しかし、学校での成績は芳しくなかった。好きなこと以外にはまったく関心を持たなかったからである。
 彼が化学、とりわけて薬品に興味を持つようになったのは9歳の頃である。モリーの除光液が頻繁に紛失したが、犯人はグレアムだった。何処で手に入れたのか、塩酸やエーテルを持っていたこともある。モリーは彼を咎めたが、フレッドは寛容にも化学の実験セットを買い与えた。

 グレアムがいよいよヤバくなり始めたのは11歳の頃である。読む本も化学から犯罪、黒魔術、ナチズムへと移行していた。ヒトラーに憧れて、その演説を真似したりもした。尊敬する人物としてウィリアム・パーマーの名を挙げ、
「僕も彼のように有名になるんだ」
 などと公言して憚らなかった。クラス全員を相手にひとりよがりな化学の講釈を垂れることもあった。ついたアダ名が「キチガイ博士」。彼もそう呼ばれる事を喜んでいた。

 グレアムと家族との関係はあまり良好ではなかった。特に何かと口喧しい継母モリーを嫌っていた。家で鼠の解剖をしていた時も、モリーはギャーギャー喚いて捨てさせた。翌日、彼は一枚の絵を居間に置いて登校した。それは墓石の絵で、碑銘には、
「憎むべきモリー・ヤング、ここに眠る」
 と記されていた。
 また、父フレッドも、前妻マーガレットの死をグレアムのせいにしていたふしがある。2人の関係は妙によそよそしく、親子の愛情を示すことはほとんどなかった。
 つまり、グレアムは愛情を教わることなく育ったのである。そして、独学で化学を、犯罪を、ナチズムを学んだ。彼はたった1人で毒殺を学び、実行し、希望通りに有名になったのである。13歳になる頃には、薬局でアンチモンを買い、それを小さな薬瓶に入れて肌身離さず持ち歩いていた。
「彼はそれを取り出しては、友達に見せびらかしました」
 同級生のクライヴ・クリーガーは語る。
「そして、こいつが僕の『小さな友だち』さ、と云うと、ギャングが自分の銃に対してそうするように、薬瓶に向ってニヤリを微笑みかけるのでした」



ヤングの一家が住んでいた家(手前)

 グレアムの最初の犠牲者はクリス・ウィリアムズという同級生である。ヤングと喧嘩をした1週間後、激しい嘔吐に襲われたのだ。それはヤングから貰ったサンドウィッチを食べた直後のことだった。しかし、鈍感なウィリアムズはその後もヤングからサンドウィッチを貰い、そのたびに吐いた。そして、とうとう寝込んでしまった。

 次の犠牲者は継母のモリーだった。やがて父のフレッドと姉のウィニフレッドも激しい嘔吐に襲われた。叔母のウィニーまでもがグレアム家で紅茶を飲んだ後に嘔吐した。誰もがグレアムの怪し気な化学の実験を原因として疑った。ポットや鍋を実験に使い、よく洗わなかったのだろうと考えたのだ。フレッドはグレアムに家での実験を禁止したが、まさか故意に毒を盛っているとは夢にも思っていなかった。

 モリーの症状は日増しに悪くなって行った。まだ38歳だというのにすっかり老け込み、背中の痛みのために前屈みで歩くようになった。体重も急激に減り始め、数カ月のうちに老婆のようになってしまった。

 1962年4月21日、いつにない不快感でモリーは目覚めた。いつもの痛みに加えて、首筋が強ばり、手足に刺すような痛みを感じた。後にグレアムが語ったところによれば、それまではアンチモンを投与していたのだが、次第に効かなくなってしまった。耐性ができていたのである。そこで、新たにタリウムを夕食に混入した。それも20粒=12人分の致死量をである。効果は覿面だった。
 昼食の時間にフレッドが帰宅すると、グレアムが台所の窓越しに何かを眺めていた。何を眺めているのか覗いてみると、裏庭の芝生でモリーが痙攣を起こし、悶え苦しんでいた。フレッドは慌ててモリーを病院へと運んだ。しかし、原因は判らず、その日の夕方にモリーは死亡した。

 モリーの遺体は検視解剖されることなく火葬された。土葬でなく火葬すべきだと主張したのはグレアムだった。今では火葬技術が進んでいるので、土葬よりも遥かに魂の安らぎが得られるというのがその理由だ。グレアムはいつもの「キチガイ博士」の口調でくどいほど力説したので、彼を黙らすためにフレッドは火葬を受け入れた。

 モリーの葬儀は4月26日に行われた。その席で故人の兄フランク・ウォーカーが激しい嘔吐に見舞われた。彼はサンドウィッチと共に出されたピクルスを食べた唯一の客だった。つまり、この件はグレアムのちょっとした「葬儀の余興」で、相手は誰でもよかったのである。



グレアムの父、フレッド・ヤング


叔母のウィニーと姉のウィニフレッド

 数日後、今度は父のフレッドが再び腹痛に見舞われ始めた。それは月曜日の朝に始まり、週末が近づくにつれて治まった。そして、月曜日になるとまた発作が起こる。後になって気づいたのだが、彼は日曜日の夜になるとグレアムとパブに出掛けていたのだ。あまりに痛みが酷いので入院したが、原因は判らなかった。しかし、フレッドは薄々気づいていた。グレアムが見舞いにやって来た時、彼は看護婦にこう云った。
「そいつをそばに近づけないでくれ」
 いくらか回復したので退院したが、すぐに具合が悪くなって再入院した。医師は戸惑いながらも、砒素もしくはアンチモンによる中毒が原因であることを家族に告げた。ウィニーとウィニフレッドは思わずグレアムの顔を見た。彼は2つの中毒の見分け方についての説明に熱心に聞き入っていた。

 グレアムが通う学校の理科の教師は、彼に実験室を自由に使わせていたことに些か後悔していた。先日は母が死に、今度は父が入院している。疑念を抱きつつグレアムの机を調べると、案の定、毒薬の瓶が数本入っていた。ノートには苦しみながら死んで行く男の絵、様々な毒薬を称える詩、そして、ウィリアム・パーマーやハーヴェイ・クリッペンに関するイラスト付エッセイ(彼は極悪非道さにおいてはパーマー、知名度においてはクリッペンを評価していた)など、毒薬に関することがビッシリと書き込まれていた。
 うわあ、どエライものを見てしまったあ。
 彼は慌てて校長にその旨を伝えた。校長もグレアム・ヤングの言動を以前から気にしていた。
 いよいよヤッたかあ。
 直ちに精神科医を呼んで、グレアムの検査を依頼した。面談は5月20日に行われた。グレアムは毒薬に対する自分の情熱と知識、そして実験室で行ってきた数々の実験の成果を滔々と語って聞かせた。精神科医は感心し、君にはもう大学に行けるだけの知性があるよと褒めそやした。グレアムは得意げに帰宅したが、精神科医はそのまま警察に直行した。

 翌日、ヤング家を訪問した刑事は、グレアムの部屋からアンチモン、タリウム、ジギタリス、イオノン、アトロピン等、数百人は殺せるだけの毒薬を押収した。
 連行されたグレアムは、翌朝になってすべてを自供した。精神鑑定によれば「道徳観念が著しく欠如している」。つまり、グレアムの行動原理は「科学者特有の超然とした客観性」だった。彼がモルモットとして家族を選んだのは、実験を観察し、記録するのに都合がよかっただけなのだ。それは冷酷非情だからではなく、科学者としての合理性に基づいているのである。
 彼が毒薬を如何に愛していたかは、以下の言葉に集約できる。
「アンチモンが恋しいよ」
 精神科医に語った言葉だ。
「あいつが僕に与えてくれた力がないと寂しいんだ」
 結局、グレアムは父と姉、そして同級生のクリス・ウィリアムズに毒を盛った件で責任があると判断され(継母のモリーに関しては、火葬してしまっているので調べようがなく、責任は問われなかった)、15年間釈放されないことを条件にブロードムア精神病院に収容された。



14歳のグレアム・ヤング

 グレアムはブロードムアの最年少の患者だった。
 叔母のウィニーと姉のウィニフレッドは、グレアムの治療のためには見捨てないことが重要だと考え、定期的に面会に訪れた。父のフレッドも何度か訪れたが、親子の会話はまるでなく、間が持たないのでやめてしまった。第一、こいつは愛する妻を2人も奪い、己れを肝臓障害にした張本人だ。顔も見たくないというのが正直なところだろう。
 しかし、モリーの兄であるフランク(葬儀で吐いた人)は面会を続けた。グレアムはフランクが訪れるたびにマッチをせがんだ。彼は云われるままに差し入れていたが、やがてマッチには燐が含まれていることを知り、差し入れをやめた。燐は毒にもなるのである。

 グレアムが収容されて1ケ月後の1962年8月6日、ジョン・ベリッジという患者が痙攣を起こし、数時間後に死亡した。検視解剖の結果、死因はシアン化物による中毒死であることが判明した。直ちに院内の調査が行われたが、シアン化物は何処からも見つからなかった。結局、事件は迷宮入りになったのだが、忘れてはならないのは、この病院には毒薬の専門家がいるということである。彼は月桂樹の葉からシアン化物を抽出する方法を知っている。そして、病院の周辺には月桂樹が繁茂していたのだ。

 グレアムが受けた具体的な治療は、鎮静剤を飲まされることだけだった。それ以外はほとんどフリーで、彼は部屋の中をナチスの戦犯たちの写真で飾りたてた。紅茶や砂糖などを入れる缶には髑髏マークと毒薬名を書き入れた。図書館への出入りも自由であり、読む本も制約されていなかった。彼は化学と毒薬の知識を益々広げて行った…。
 おいおい、マジかよ。
 グレアムの若さが医師たちを油断させたのだろう。彼らはグレアムが近いうちに社会復帰できると信じていた。毒薬ではなく人を愛することができるだろうと。そこで、彼を調理場で働かせてみることにした。冒険だったが、自分たちが彼を信頼しているという態度を見せることが必要だと考えたのだ。
 しかし、その淡い期待は完璧なまでに裏切られた。彼が入れたコーヒーが異常に黒ずんでいたのだ。検査の結果、トイレ用洗剤が混入されていた。看護婦たちはグレアムをまったく信じていなかったので飲む者はいなかったが、それ以来、患者が面倒を起こすと、
「おとなしくしないと、あなたのコーヒーをグレアムに入れさせますよ」
 とキツい冗談を飛ばすようになった。

 1965年の暮れに、グレアムは退院許可の嘆願書を提出する権利を取得した。しかし、父のフレッドは「絶対に退院させてはならない」と申し入れた。嘆願を棄却されたグレアムは、ティーポットの中に浴槽用洗剤を混入した。これがバレてグレアムは集中監視棟に移されることになった。
 この経験がグレアムに知恵をつけた。毒殺者としての自分を封印したのだ。そして、治癒しているフリを始めた。1970年には主治医は「完治」を内務省に報告した。歓喜したグレアムは、姉に「吉報」を手紙で知らせた。
「あと2、3ケ月もすれば、あなたの隣のフランケンシュタインは再び自由の身になれるでしょう」
 イヤな手紙である。まったくイヤな手紙である。

 1971年2月4日、グレアム・ヤングは退院した。しかし、完治しているどころかパワーアップしていた。退院前に或る看護婦にこのような本音を明かしている。
「退院したら、ここで過ごした年の数だけ殺してやるんだ」



第二の舞台となったジョン・ハドランド社


グレアム・ヤング、お気に入りのポートレート

 ブロードムアを退院したグレアムは、その足で姉のウィニフレッド(既婚)の家へと向った。彼女はグレアムの退院は知っていたが、今日がその日だとは知らされていなかった。
 父のフレッドに至っては、退院することさえ知らされていなかった。彼は憎たらしい息子の退院をウィニフレッドからの手紙で初めて知ったのだ。1ケ月後、ブロードムアの職員が彼の家を訪れて、トンチンカンなことを告げた。
「ただいま息子さんの退院が審議されているところです」
 アホこくな、ボケ。息子はとっくに退院しておる。フレッドはブロードムアの無能ぶりに呆れ果てた。

 ウィニフレッドの家でしばらく過ごしたグレアムは、スラウにある職業訓練所へと通った。ここでトレヴァー・スパークスという青年と友達になった。3日後、トレヴァーは激しい腹痛に襲われた。グレアムは献身的に看病した。その甲斐あって、遂に両足が麻痺してしまった。

 やがてグレアムは、ジョン・ハドランド社の求人広告を眼にした。高速度撮影用の光学機器を製造している会社である。こういう会社では化学薬品を扱っている。それに、姉の家の近くにある。グレアムは早速、応募した。履歴書の「特記事項」の欄には、
「有機化学、無機化学、薬学及び毒物学を10年以上に渡って研究した経験あり」
 と記し、左の顔写真を貼った。これは自動撮影機で撮ったもので、なかなか写さないのでムッとしたところにパチリとなった。そのためにこんな怖い顔になってしまったのだが、グレアムはたいそう気に入り、後の裁判では自ら報道陣に配ったそうである。

 4月23日、グレアムはハドランド社の就職面接を受けた。応対したゴッドフリー・フォスターは、グレアムの化学に対する知識に感心したが、それよりも興味を持ったのは、履歴書の「空白の9年間」だった。グレアムはこのように説明した。
「母が交通事故で急死した後、神経衰弱に罹り、精神科の治療を受けていました。でも、今では完治しました」
 てめえが殺したのによお。
 フォスターは確認のために主治医の診断書を届けさせた。主治医はグレアムの完治を確信していたため、前科については一言も触れなかった。グレアムの社会復帰への配慮であるが、誰が考えてもトンデモない話である。毒殺者を化学薬品を扱う会社に雇わせてしまったのだ。強姦魔を女子高に放り込むようなものである。この件に関して、主治医は責められても仕方がないだろう。



ボブ・エッグル


フレッド・ビッグス


ジェスロ・バット(グレアムと会う前→後)

 グレアムは5月10日からハドランド社の倉庫係として働き始めた。同僚たちはみな気さくで、一風変わった新人を歓迎した。特に倉庫管理部長のボブ・エッグルと、出荷担当のフレッド・ビッグスはグレアムを可愛がった。グレアムはそれに応えるかのように、手巻きの煙草を2人にあげた。そして、それまではバートレット夫人の仕事であった紅茶をワゴンで配る係を買って出た。
 これを読んでいる諸君は「しむら〜、うしろ〜」状態であろう。

 6月3日、ボブ・エッグルが激しい腹痛に見舞われて、しばらく寝込むことになった。
 6月8日、倉庫係のロン・ヒューイットが、グレアムが運んできたお茶を飲んだ直後に激しい腹痛に襲われた。医師の診断は食中毒だったが、症状は一向に治まらず、出勤しては吐いて休み、出勤しては吐いて休みを3週間も繰り返した挙句に退社してしまった。彼は退社したおかげで命だけは取り留めた。
 6月25日、エッグルが職場に復帰した。ところが、翌日から指が痺れ、背中が痛みだし、遂には動けなくなってしまった。直ちに病院に運ばれたが、容態は悪くなるばかりだった。苦しんで苦しんで苦しんだ挙句、7月7日に死亡した。

 9月に入って、今度はフレッド・ビッグスが腹痛に襲われ始めた。
 9月20日、輸出入部長のピーター・バックが、グレアムと共に紅茶を飲んだ直後に激しい腹痛に襲われた。
 10月8日、今度は事務員のデヴィッド・ティルソンが紅茶を飲んだ直後に具合が悪くなった。足に針で刺したような痛みを感じた。

 10月15日、ジェスロ・バットが残業をしていると、グレアムがこんなことを話し掛けてきた。
「ねえ、ジェス、知ってる? 誰かに毒を盛って、それを病気のように見せかけるのはとても簡単なことなんだよ」
 そしてグレアムはコーヒーを入れた。バットは一口飲んで、苦いと感じた。苦いコーヒーが好きではなかったバットは残りを捨てた。それを見ていたグレアムが云った。
「どうしたの? 僕が毒でも入れたと思ったのかい?」
 その場では大笑いしたバットだったが、20分後に具合が悪くなった。バットは後にこのように語っている。
「少し変わった奴だとは思っていたが、当時は一連の出来事を繋ぎ合わせて考えることが出来なかった。あの時、気づくべきだった」
 バットの足は次第に麻痺していった。

 10月18日、遂にデヴィッド・ティルソンが入院した。この頃には頭髪が抜け始めていた。
 10月19日、事務員のダイアナ・スマートが、グレアムとコーヒーを飲んだ直後に嘔吐した。手に刺すような痛みを感じ、やがて痙攣が襲った。
 一方、ジェスロ・バットの容態も悪化していた。彼は妻に「死にたい」と漏らした。彼もまた頭髪が抜け始めていた。

 10月30日、復調したフレッド・ビッグスがグレアムと紅茶を飲んだ直後にぶり返した。11月4日には入院したが、容態は悪くなる一方だ。そして11月19日、苦しんで苦しんで苦しみ抜いて死亡した。



グレアム・ヤング、再逮捕

 社員が既に2人も死んでいるのだ。尚且つ、死にかけている者も2人いる。これはただごとではないと、経営者のジョン・ハドランドは嘱託医のイアン・アンダーソンに調査を依頼した。考えられる原因はタリウムである。タリウムは高屈折率レンズの製造過程で使用されることがあるからだ。しかし、ハドランド社では現在は使われていなかった(実はグレアムはそれが目的で入社したのだが、使用されていないことを知り、わざわざ独自に入手したのである)。そこで、伝染性のウイルスが原因ではないかと考えた。その旨を社員を集めて説明し、平静を保つように求めた。
 ハドランドは、社員たちの質問を受け付けた。
「どうして重金属による汚染の可能性を排除するのですか?」
 社員たちの後ろの方から不満げな声が聞こえた。グレアムだった。
「彼らの症状は重金属中毒の症状と合致しているじゃないですか」
 アンダーソンはドキリとした。その通りなのだ。しかし、ここでこれ以上話しても社員が不安になるだけだ。アンダーソンは誤魔化そうとしたが、グレアムは引き下がらなかった。
「病気になった人と死んだ人とでは症状が違うことにお気づきですか?」
 不意をつく質問だった。アンダーソンは考えてもみなかった。
「脱毛についてはどう思われますか?」
 グレアムは得意げに質問し続けた。
「やはりこれもウィルスによるものだとお考えですか?」
 グレアムは次第に神経障害についての専門的な質問に踏み込んできた。アンダーソンとハドランドは顔を見合わせた。互いに何を考えているのか判った。
 こいつが原因だ!
 警察に問い合わせたハドランドは、グレアムの前科を知って仰天した。逮捕された時、グレアムはこう訊ねたと云う。
「どっちの件?」



グレアム・ヤング、再逮捕

 グレアムの下宿を捜索した警察は、様々な薬瓶や試験管の他に『学生と警察のためのケースブック』と題された一冊のノートを押収した。いわば毒殺日記である。

 10月31日
「Fに致死量の特別混合剤を投与した。明日どうなっているか楽しみだ」

 11月1日
「Fは出社していない」

 11月3日
「Fは既に重体だ。意識不明で、麻痺と失明が進行している。あと2、3日もすれば最期を迎えるだろう。その方が彼には救いになる。仮に生き延びたとしても、永久に障害者になるだろうから、死んだ方がいいのだ」

 11月4日
「或る医者によればFの症状はウイルスによるものだという。私と張り合おうとしているのだろうか」

 11月10日
「Fはまだ生きている。特別混合剤に耐えるとは、なんという強靱な体力なのだろう。生きていられると厄介なことになりかねない」

 11月17日
「Fの治療が効果を上げている。てこずらせる奴だ。3週間も延命すれば、そのまま生き続けるだろう」

 しかし、2日後にF、すなわちフレッド・ビッグスは死亡した。
 冷酷非情な反面で、グレアムはこんなことも記述している。

「Jを傷つけたことを恥ずかしく思う。彼は本当にいいやつだし、社員の中では最も友人に近いと思っている。彼はきっと回復すると信じている」

 Jとは妻に「死にたい」と漏らしたジェスロ・バットのことである。また、このような記述もある。

「Rは理想的な対象だ。今週やってくる筈だから、その時にチャンスが訪れるだろう。あんなにいい人に恐ろしい最期を遂げさせるのは、ある意味で恥ずかしいことかも知れないが、心に決めた以上、彼には早過ぎる死をまっとうしてもらわなければならない」

 Rとは工場に定期的に配達に来る文具商のことだが、その週に納品がなかったために、早過ぎる死をまっとうせずに済んだ。
 これらの記述を読む限り、グレアムにはまだ人としての心が残っているかのように思える。では、何故に親しい人を殺すのか? グレアム曰く、

「おそらく、僕は彼らを人として見ることをやめてしまったんだと思います。彼らはモルモットになっていたんです」

 フレッド・ビッグスの殺害で起訴された翌日、グレアムはハーヴェイ警視に全てを打ち明けた。そして、オスカー・ワイルドの『レディング監獄のバラード』を暗唱した。

 男はみな、愛する者を殺すのだ
 みなの者よ よく聞くがいい
 ある者は厳しい顔つきで
 ある者はへつらいの言葉で
 卑怯者は口づけによって
 勇者は剣をもって

 一息ついて、グレアムは云った。
「僕の場合は、たぶん、口づけでしょうね」
 しばらく沈黙が続いた後、こうつけ加えた。
「僕はこんな風に丁重な扱いを受けるに値する人間ではありません」
 彼が初めて口にした改悛の言葉だった。ハーヴェイ警視は云った。
「どうやら、いくらか良心の呵責を感じ始めているようだな」
 グレアムは慌てて否定した。
「そうじゃありません、ハーヴェイさん。僕に良心があると云えば偽善になるでしょう。僕の魂は空っぽで、何も感じられないんです」

 結局、グレアムは2件の殺人と2件の殺人未遂、その他諸々の傷害で有罪となり、終身刑を宣告された。退廷後、彼は姉と叔母に謝罪した。
「僕のことは全て忘れて下さい。色々と迷惑をかけてすみませんでした」
 しかし、その一方で、彼は自分の鑞人形がマダム・タッソーの「恐怖の館」に、敬愛するウィリアム・パーマーと並んで展示されることを心待ちにしていたという。

 1990年8月初旬、43歳の誕生日を2週間後に控えたグレアムは、バークハースト刑務所で心臓発作で死亡した。1994年に製作されたグレアムの伝記的映画『グレアム・ヤング毒殺日記』では、彼は自らを毒薬実験に用いて死亡したとされている。その真偽は判らないが、事実だとすれば、如何にも彼らしい死に様である。


参考文献

『グレアム・ヤング毒殺日記』アンソニー・ホールデン著(飛鳥新社)
『現代殺人百科』コリン・ウィルソン著(青土社)
週刊マーダー・ケースブック73(ディアゴスティーニ)
『連続殺人紳士録』ブライアン・レーン&ウィルフレッド・グレッグ著(中央アート出版社)
『殺人紳士録』J・H・H・ゴート&ロビン・オーデル著(中央アート出版社)
『世界犯罪百科全書』オリヴァー・サイリャックス著(原書房)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)


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