ハーバート・アームストロング
Herbert Armstrong (イギリス)



ハーバート・アームストロング

 ハロルド・グリーンウッドの事件がまだ記憶に新しい1921年12月31日、ウェールズのもう一人の弁護士が妻殺しの容疑で逮捕された。グリーンウッドの場合は冤罪だったが、このハーバート・アームストロングが妻を殺したことは間違いない。それどころか、彼は同業者さえも毒牙にかけようとしていたのだ。

 ハーバート・アームストロングはイングランドとウェールズの国境いの町ヘイ・オン・ワイで、グリーンウッドと同業の事務弁護士をしていた。左の写真だけだとノッポさんのようにも見えるが、実は150cmそこそこ、体重45kgのチビすけだった。かたや妻のキャサリンは大柄で、まさにノミの夫婦である。いつも妻の尻に敷かれていたようだ。そんな彼の唯一の自慢は、第一次大戦に召集されて、少佐に昇格したことだった。戦後も好んで軍服を着ていたというが、彼は戦地には行っていない。国内の補給所で事務をしていただけである。事務弁護士だからね。

 やがてアームストロングの妻の具合が悪くなった。1920年8月のことである。両手がひどく震えるようになったのだ。以前からちょっとアレだったため(要するに、奇行が目立った)、主治医のトーマス・ヒンクスは精神から来るものと判断し、その筋の病院に検査入院させた。
 退院したのは翌年の1月22日だが、1週間もしないうちに容態が悪化。完治していた手の震えが再発し、激しい嘔吐と下痢に襲われた。そして、2月22日に昏睡に陥り、あっという間に逝ってしまった。
 さて、ここで注目すべきなのは、グリーンウッド事件との関連性である。

 19年 6月16日 メイベル・グリーンウッド死亡
 20年 6月16日 ハロルド・グリーンウッド起訴
     8月22日 キャサリン・アームストロング入院
    11月 2日 グリーンウッドの裁判開始(8日で結審、無罪)
 21年 1月22日 キャサリン・アームストロング退院
     2月22日 キャサリン・アームストロング死亡

 つまり、キャサリンの死はグリーンウッド無罪の直後だったのだ。そのために、アームストロングがグリーンウッド事件を模倣したと見る向きが多い。事実、彼が使用したのは同じく砒素だった。
 いつもガミガミと喧しい妻が入院してからは「鬼の居ぬ間に洗濯」とばかりに、アームストロングは大いに羽根を伸ばしていた。週末になると女遊びにうつつを抜かした。おかげで梅毒に罹ってしまったが(11月頃のこと)、それでもペニシリンを投与しながら遊び歩いた。そんな中で妻の退院。もうあの頃の禁欲的な生活には戻れない、戻りたくない男心の浅はかさ。妻を亡きものにしようと砒素を盛ったのは、おそらく退院以降である。当初の手の震えは、純粋に病気だったのだろう。

 もともと「ちょっとアレ」な人だったので、キャサリンの死は誰からも疑われることなく、そのまま埋葬された。このまま何事もなければ、彼の犯行は発覚することはなかっただろう。ところが、女遊びにうつつを抜かしていたおかげで、懐の方が少々寂しくなってきた。否。寂しいどころか、当時の彼はほとんど破産寸前だった。そのことが彼を次なる犯行へと導く。そして、そのためにすべてが露見するのである。

 1921年10月23日早朝、キャサリンの主治医だったヒンクス医師は事務弁護士のオズワルド・マーティンに呼ばれた。手が震え、嘔吐と下痢がひどいのだという。その症状には憶えがあった。死亡したキャサリンとまったく同じなのだ。
「何か心当たりはありませんか?」
「いえ、特に何も。いつものように仕事をして、アームストロングの家に寄ってから帰宅して、それから間もなく具合が悪くなったんです」
「アームストロング? もしかしてハーバート・アームストロングですか?」
「ええ、そうです。仕事仲間なんです。お茶に呼ばれましてね」
「その時、何か口にしましたか?」
「ええ、お茶を飲みました。それからスコーンを手渡されたので食べました」
 ヒンクス医師は考え込んでしまった。マーティンは動揺して訊ねた。
「えっ? どうしたんですか?、先生。食べちゃいけなかったんですか?」
「いや、ちょっと思い当たるフシがありましてね…。念のために尿を検査してみましょう」
 ヒンクスが考え込んだのは、キャサリンとマーティンの症状が共に砒素中毒と一致していたからだ。数日後、彼の疑念は正しかったことが判る。マーティンの尿から2mgの砒素が検出されたのだ。

 ヒンクス医師は直ちに警察に届け出た。ところが、警察はなかなか腰を上げたがらない。アームストロングは地元では顔の効く弁護士だし、陸軍少佐として治安判事補佐官を務めたことのある人物だ。もし間違いでもあったらエラいことだ。己れのクビが飛びかねない。とりあえず、マーティンにはアームストロングと飲み食いしないように注意して、慎重に外堀を埋めることにした。
 一方、そんなことを知らないアームストロングは、しきりにマーティンをお茶に誘った。よっぽど殺したかったのだろう。それはこんな具合だった。
「今日の午後、お茶でもどうかな?」
「今日はあいにく忙しいんだ。お茶は無理だけど、夕方の6時過ぎにでも顔を出すよ」
「忙しいならいいんだよ。いつだって構わないんだから。それじゃあ明日はどうかな?」
 マーティンが約束をすっぽかすと、わざわざ電話をかけてきて、
「もう30分も待ってるんだけど、何かあったのかい?」
 自宅に誘い込めないと悟るや、今度は事務所に誘い始めた。これはなかなか断りにくい。なにしろ、彼の事務所はマーティンの事務所の真向かいなのだ。それでもどうにか断り続けてきたマーティンだったが、いよいよ断れなくなった。毎年恒例の大晦日ディナー・パーティーに招待されたのである。
「さすがにこれは断れません! 早くどうにかして下さい!」

 この頃には警察はかなり外堀を埋めていた。
 まず、キャサリンが退院する直前の1月11日、アームストロングが100gほどの白砒(三酸化砒素)を購入していたことを突き止めた。
 次に、アームストロングの余罪らしきものが色々と浮上して来た。例えば、その年の8月に彼の家で食事をした客の一人が、その直後に砒素中毒と思しき症状に陥っている。その数日後、やはり彼の家で食事をした別の客が、帰宅後に激しい腹痛に襲われて、虫垂炎と診断されて、手術中に死亡している。
 更に、マーティンへの攻撃がお茶やディナーだけではないことも発覚した。9月の半ば頃に差出人不明の箱入りチョコレートが郵送されており、これを口にした客が嘔吐していたのだ。残りのチョコレートを調べたところ、注射針により砒素が混入されていたことが判明した。
 マーティン夫妻が大晦日ディナー・パーティーに出席することは、すなわち死を意味する。こう判断した警察はようやく重い腰を上げて令状を取り、アームストロング宅を捜索した。そのポケットからは砒素が入った包みが押収されて、ハーバート・アームストロングはその場で逮捕された。1921年12月31日、大晦日のことである。ぎりぎりセーフ!

 ところで、アームストロングはどうしてかほどにマーティンを殺したかったのだろうか? それは彼が破産寸前だったことと関連している。
 アームストロングとマーティンは或る不動産売買の事務を請け負っていた。アームストロングが売り手側、マーティンが買い手側の代理人である。アームストロングは手付金として500ポンドをマーティンから受け取っていたが、商談をまとめることが出来なかった。ところが、500ポンドは女遊びに蕩尽してしまった。ないものは返せない。そこで「契約までにはもう少し時間がかかる」とかなんとか誤魔化しながらマーティンを抹殺して、500ポンドはうやむやにしてしまおうと画策したというわけだ。

 あらゆる証拠が彼の有罪を物語っていた。掘り起こされたキャサリンの遺体からも致死量の2倍の砒素が検出されて、ハーバート・アームストロングは絞首刑に処された。

(2007年4月12日/岸田裁月) 


参考文献

『殺人紳士録』J・H・H・ゴート&ロビン・オーデル著(中央アート出版社)
週刊マーダー・ケースブック57(ディアゴスティーニ)
『世界犯罪百科全書』オリヴァー・サイリャックス著(原書房)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)


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