ウィリアム・クック
William Cook (アメリカ)



ウィリアム・クック

 ミズーリ州ジョプリンでアル中鉱夫の息子として生まれたウィリアム・クックは、その容姿のために苦労している。右目蓋の先天的な畸型ゆえに施設では差別され、里親からも虐待された。社会が受け入れてくれないのならばアウトローになるしかない。窃盗や強盗を繰り返し、シャバとネンショーを行き来した。1950年、22歳になったクックはアル中親父と久しぶりに再会、このように将来を語ったという。
「俺は銃で生きていくよ」
 親父、止めろよ。

 1950年12月30日、或る男がテキサス州ラボック辺りを車で流していると、ヒッチハイク中の若い男が目に入った。ウィリアム・クックだった。男は車を停めて訊ねた。
「何処まで行くんだ?」
「ミズーリ州のジョプリンだ」
「それなら方角が違う。悪いな」
 男が走り出そうとすると、
「おっと、そうは行かねえぜ」
 クックは拳銃を突きつけながら云った。
「この車は俺が頂いた。悪いな」
 男はトランクに押し込められた。このままでは殺られちまう。必死でトランクをこじ開けて、スピードが落ちる頃合いを見計らって逃げ出した。クックはそのまま走り続け、オクラホマ州タルサでガス欠になると車の乗り捨て、再び親指を立てて更なる獲物を物色した。

 次に罠にかかったのはカール・モッサーとその妻のセルマ、そして3人の子供たち犬1匹。12月31日の大晦日のことである。ニューメキシコ州へと向かう家族は善意で車を停め、そして先の男と同じようなやりとりの末にアウトローに乗り込まれたのだ。家族5人と犬1匹はさすがにトランクには入りきらない。クックはカールにそのまま運転するよう命じた。どういうわけかジョプリンには向かわずに、ニューメキシコ州カールスバッド、テキサス州エル・パソ、そして同じくヒューストンとあてどもなく放浪し、ようやくオクラホマ州オセージ付近の廃鉱で、犬を含めた一家を皆殺しにしたのだった。いったい何がしたかったのか? この与太者のオツムの中はさっぱり判らない。

 やがて一家の血みどろの車を発見した警察は、逃げ出した先の男の証言から容疑者を特定していた。ウィリアム・クック。特徴的な右の目蓋が何よりの証拠だ。カリフォルニア州ブライスに潜伏していることを突き止めたが、逮捕に向かった警官はあろうことか、逆襲されて車を奪われてしまう。
「地獄の逃避行」とはまさにこのことを云うのだろう。アリゾナ州ユーマまで逃げ延びたクックは、そこで流しのセールスマン、ロバート・デューイを殺害し、 奪った車でメキシコに渡ったところでようやくお縄となるのだった。1951年1月15日のことである。

 2週間余りの逃避行の代償は己れの命だ。1952年12月12日にサン・クェンティンのガス室で処刑されたウィリアム・クックの生涯は、野蛮な開拓時代であったならば伝説となったのかも知れないが、今日ではすっかり忘れ去られて、俺に茶化されるのが関の山。

(2008年7月15日/岸田裁月) 


参考文献

『殺人紳士録』J・H・H・ゴート&ロビン・オーデル著(中央アート出版社)


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