ハートフォード・サーカス火災
The Hartford Circus Fire (アメリカ)



燃え上がるテント


黒焦げの遺体を囲んで

 1944年7月、有名なリングリング・ブラザース&バーナム&ベイリー・サーカスがコネチカット州ハートフォードにやって来た。ブラスバンドを先頭に象やピエロや軽業師たちが大通りを練り歩き、町はすっかりお祭り気分だ。
 しかし、団員たちはこの興行に不安を抱いていた。というのも、第二次大戦のために人員と設備が不足し、遅れや不手際が日常的になっていたのだ。2年前の1942年8月4日には動物園から出火し、多くの動物が焼け死んだ。このたびもサーカス列車が遅れて、初日である7月5日の昼の興行に間に合わなかった。初日をトチるとロクなことがないとのジンクスがサーカスにはある。故に団員たちはナーバスになっていたのだ。

 7月6日の昼の興行は予定通りに行われた。観客動員は実に8700人。満員御礼といったところだろう。
 ショーの開始から20分ほど経過した頃、テントの南西側面から火の手が上がった。それを最初に見つけたバンドリーダーは直ちに『星条旗よ永遠なれ』の演奏を指示した。それは緊急事態を団員に知らせる伝統的な合図だった。
 やがて観客から声が上がった。
「火事だ! 火事だ!」
 パニックに見舞われた観客は出口に殺到した。団長は叫んだ。
「みなさん、慌てないで下さい! 慌てないで下さい!」
 しかし、耳を貸す者は誰もいない。押し合いへし合いの大騒ぎで、将棋倒しになる始末である。
 その頃には炎は急速な勢いでテントの屋根に燃え広がっていた。防水用にテントに塗られたパラフィン油が火の手を早め、それがあたかもナパーム弾のように観客の頭上に降り注いだのである。結果、死者168人、負傷者700人以上の大惨事となった。

 火災の原因は今日もなお明らかになっていないが、放火との見方が有力である。しかし、当局は容疑者を特定するに至らなかった。
 6年後の1950年、オハイオ州サークルヴィルで連続放火の容疑で逮捕された若い男が、ハートフォードも自分の仕業だと告白して世間を驚かせた。ロバート・デイル・セージー(21)。事件当時はサーカスで雑役をしていたというこの男は、夢に出て来た「燃え上がる馬に乗ったインディアン」に唆されて火を放ったのだと説明した。しかし、彼には精神疾患の病歴があり、供述をそのまま鵜呑みにすることは出来ない。当局も彼の犯行を裏づけることが出来なかった。結局、セージーはサークルヴィルでの10件の放火でのみ訴追されるに留まり、40年の刑が云い渡された。
 今日ではセージーの仕業ではないと見る向きが多い。当人も後に犯行を否定している。




リック・デイヴィー著『A Matter of Degree』

 なお、本件にはこのような興味深い外伝がある。
 168人の犠牲者の中にたった1人だけ身元不明の少女がいた。検視番号から「リトル・ミス・1565」と呼ばれた彼女の写真が全国の新聞に掲載されたが、遂に身元が判らなかった。
 彼女はいったい誰で、何処から来たのだろうか?
 ちょっとしたミステリーである。

 1991年、放火捜査官リック・デイヴィーが著書『A Matter of Degree』の中で、アメリカでは既に伝説と化している「リトル・ミス・1565」の正体を明かして話題となった。曰く、
「彼女はマサチューセッツから来たエレナー・エミリー・クックである」
 しかし「リトル・ミス・1565」はブロンドだが、エレナーはブルネットだった。彼女の母親も明確に否定している。
 思うに、遺体の取り違えがあったのだろう。エレナーは別の子として埋葬されて、残った少女が「リトル・ミス・1565」になったのである。

 もっとも、謎は謎として残った方がいい場合もある。何処からともなく現れた少女が、一人サーカスで非業の死を遂げる…。これも一つのメルヘンには違いない。

(2009年1月27日/岸田裁月) 


参考文献

『THE ENCYCLOPEDIA OF MASS MURDER』BRIAN LANE & WILFRED GREGG(HEADLINE)


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