ロック・アー・タム
Lock Ah Tam (イギリス)



ロック・アー・タム

 1872年に広東で生まれたロック・アー・タムは水夫としてリバプールに渡り、造船所の労働組合で赤旗を先頭立って振ることで中国人移民社会の顔役に成り上がった。
 そんな順風満帆な人生にケチがつき始めたのは1918年のこと。波止場での喧嘩に巻き込まれた彼は、ビリヤードのキューで頭を思いっきりド突かれ、それからは人格がまるで変わってしまったのだ。やたらと気難しくなり、酒も浴びるほど飲むようになった。浪費癖は治まらず、1924年には破産してしまった。

 いったい彼に何があったというのだ?
 ド突かれたことでアタマのネジがはずれてしまったのか?

 そして1925年12月1日、遂に取り返しのつかないことを仕出かしてしまう。
 その日は長男の21回目の誕生日だった。招待客がいるうちは礼儀正しく振る舞っていたが、家族だけになった途端、ロックは怒りを爆発させた。
 何に怒っているのかさっぱり判らない。しかし、そのただごとではない暴れように身の危険を感じた長男は助けを呼びに走った。

 そういえば、うちの死んだ親父もこんな感じだったなあ。
 あいつのアタマのネジもはずれていたのだろうなあ。

 長男が警官を連れて戻った時には手遅れだった。イカれた父親は妻のキャサリンと2人の娘、ドリス(20)とセシリア(18)を射殺した後、フッと我に返り、自らが警察に電話をして、その到着を放心状態で待っていたのだ。ボンヤリと家族の亡骸を眺めながら。

 弁護人のエドワード・マーシャル・ホール卿は当然のことながら精神異常を主張したが、陪審員はこの危険な東洋人をリリースすることを許さなかった。わずか12分の協議で有罪を評決、ロックは1926年3月23日に絞首刑に処された。

(2007年10月13日/岸田裁月) 


参考文献

『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)


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