ゴードン・スチュアート・ノースコット
Gordon Stewart Northcott (アメリカ)



ゴードン・スチュアート・ノースコット

 1928年2月、カリフォルニア州ラ・プエンテの溝の中で、メキシコ人少年の首なし死体が発見された。
 3月10日にはウォルター・コリンズ(9)が行方不明になった。付近一帯ではここのところ、少年の失踪事件が相次いでいた。
 5月16日にはルイス・ウィンスロー(12)と弟のネルソン(10)が行方不明になった。このたびは目撃者がいた。2人を連れて歩いていたのがゴードン・スチュアート・ノースコット。カリフォルニア州リヴァーサイドで養鶏場を経営する21歳の若者だった。

 警察が養鶏場を訪ねた時には、ノースコットはカナダに逃げた後だった。残された母親のサラと、15歳の甥サンフォード・クラークを厳しく追求したところ、恐るべき事実が発覚した。ノースコットはこれまでに何人もの少年を誘拐しては養鶏場に監禁し、性的なおもちゃにし、時には裕福な小児性愛者にレンタルしていたというのだ。飽きれば斧で脳天を叩き割り、生石灰で肉を溶かして、骨は砂漠に遺棄する。この作業を手伝わされていた甥が指定した場所には、山ほどの人骨が転がっていた。犠牲者の数は20人は下らないだろうと見られている。

 やがてカナダで身柄を押さえられたノースコットは、のらりくらりと尋問をかわした。
「殺ったのは18人…いや、19人くらいかなあ…。いやいや、おそらく20人は下るまい」
 犠牲者の数はコロコロと変わり、
「あっ、思い出した。あそこに埋めたんだっけ」
 などと云うので出向いてみれば、嘘八百だったりするのである。このグダグダっぷり、ヘンリー・ルーカスケネス・ビアンキの先駆と云えよう。

 結局、裁判でも事件の全貌が明らかになることはなかった。
 母親のサラはウォルター・コリンズの殺害に加担したかどで終身刑を云い渡され、甥のサンフォードはノースコットに不利な証言をすることの見返りとして不起訴となった。
 死刑を云い渡されたノースコットは次第に精神の均衡を失い始め、恐怖に脅えながら絞首台に臨んだ。
「祈りを! どうか私に祈りを捧げてください!」
 その罪にふさわしい、惨めったらしい死に様である。


(2007年10月7日/岸田裁月) 


参考文献

『連続殺人紳士録』ブライアン・レーン&ウィルフレッド・グレッグ著(中央アート出版社)


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