ドクター・エドワード・プリチャード
Dr. Edward Pritchard (イギリス)



ドクター・エドワード・プリチャード

 とりあえず「そのヒゲはありえへん」と突っ込みを入れてから話を進める。「口八丁手八丁、おまけにハンサム」は『世界の料理ショー』の人だが、こいつは「ドスケベでホラ吹き、おまけにへんてこ」と最悪である。

 こんなんでも1846年に王立外科医大を卒業したエリート医師のエドワード・プリチャードは、海軍の軍医を経て1850年にヨークシャーで開業医を始める。既にメアリー・ジェーン・テイラーと結婚していたが、生来のドスケベゆえに醜聞が絶えず、逃げ出すかたちでグラスゴーに移転した。1859年のことである。ところが、この地でも持ち前の虚言癖が祟って医者仲間から総スカンを喰らう。それでも口だけは達者だった彼は各地を講演して歩き、喰うには困らなかった。いっそのこと芸人になった方がよかったのかも知れない。

 1863年に不審火で自宅が半焼、女中が1人焼け死んだ。今日ではこれも彼の仕業と見られている。何故なら、この女中はドスケベ先生のお手付きで妊娠していたのだ。遺体はベッドに寝たままで、逃げ出そうとした形跡がない。おまけに寝室には外から鍵が掛けられていた。誰が考えても怪しいが、どういうわけか訴追されなかった。フリーメイソンのコネを使ったのだろうか?

 それでも懲りない先生は、またしても15歳の女中に手をつける。
「妊娠しました。責任取って下さい」
「判った判った。妻と別れて結婚してやるから、とりあえずお腹の子供は堕ろしなさい」
 そんな矢先の1865年1月1日、楽しいお正月だってえのに妻のメアリーが激しく嘔吐、そのまま寝込んでしまう。看病のためにやって来た義母までが吐き気に襲われ、まず義母が、続いて妻が息を引き取る。あっと云う間の出来事である。その葬儀で先生は妻の遺体にこれ見よがしにキッスの嵐を浴びせたというから呆れてしまう。演技過剰のバカ先生である。

 先生の悪事が露見したのは、検事に送られた匿名の投書が切っ掛けだった。よっぽど医者仲間から嫌われていたのだろう。忠告に従い発掘された遺体からはアンチモンが検出された。
 かくして有罪となった先生の処刑には10万人もの観衆が押し寄せた。この数はスコットランド史上最高だ。これを最後にグラスゴーでは公開処刑は廃止されたというから、千秋楽は満員御礼だったわけだ。

 なお、本件で今一つ判らないのが動機である。かつてお手付きの女中を焼き殺したことのある男が、責任を取って結婚するとは思えないからだ。むしろ女中を殺すのが筋だと思うのだが、どうして妻と義母を殺したのか? 2人に保険はかけられていない。まったくへんてこな男である。

(2007年1月12日/岸田裁月) 


参考文献

『殺人紳士録』J・H・H・ゴート&ロビン・オーデル著(中央アート出版社)
『連続殺人紳士録』ブライアン・レーン&ウィルフレッド・グレッグ著(中央アート出版社)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)


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