ロビンソン・ヒル事件
The Robinson Hill Case (アメリカ)



ジョアン(中央)とアッシュ・ロビンソン(右)

 整形外科医のジョン・ヒルが、テキサスの石油王アッシュ・ロビンソンの養女、ジョアンと結婚した当初から「財産目当てではないのか」との心ない噂が囁かれていた。クラッシック鑑賞を好むインテリ医師と、乗馬を好むお転婆娘に共通点を見出すことが出来なかったからだ。
 良からぬ噂は1969年3月、ジョアン・ロビンソン・ヒルが急逝したことで再燃する。たしかに、彼女の死には不自然なところがあった。
 まず、彼女が運ばれた病院が、夫妻の家から不自然なほどに遠かった。一刻も争うのだから、どうして近くの病院に運ばなかったのか?
 そして、一通りの行政解剖は行われたものの、その結論が出ないうちにさっさと埋葬してしまった。どうしてそんなに急ぐ必要があったのだろうか?
 つまり、彼女の夫は急ぐべき時に急がずに、手遅れになってから急ぎ始めたのだ。これでは疑われても仕方ない。

 死因は肝臓障害との所見だが、石油王は夫のヒルを疑った。毒か何かで殺されたのではないかと考えたのだ。この疑惑はヒルが3ケ月もしないうちに再婚したことで確信に変わった。
 ちくしょう、あの野郎。今に見ておれ!
 ロビンソンは公然とヒルを「この人殺し!」と罵る始末。一方、ヒルも黙ってはいない。名誉を毀損されたとして、石油王に対して500万ドルにも及ぶ損害賠償を求める訴訟を提起したのである。
 どっちもどっちという感じもしなくはない。

 同年11月、ロビンソンの主張が受け入れられて、2度目の解剖が行われたが、故意に殺害した痕跡を見つけることは出来なかった。それでも石油王は諦めなかった。金に物を云わせて起訴陪審に持ち込み、1970年4月に行われた3度目の審問でようやく「不作為による謀殺」の容疑で立件するに至ったのである。
 しかし「不作為による謀殺」、すなわち怠慢を殺人行為と看做すことは立証が極めて困難だった。裁判当時は別居していたヒルの再婚相手も検察側証人として出頭し「私も夫に殺されるところでした」などと証言すれども、陪審員は割れて審理無効となった。

 結局、本件は白黒つかなかった。再審を待つ間にヒル医師が自宅で射殺されたのだ。1970年9月24日のことである。手を下したのは雇われた殺し屋だった。そして、彼もまた保釈中に逃走して、警官に射殺された。かくして本件はお宮入りを果たした。
 殺し屋を雇ったのが石油王であることはまず間違いないだろう。しかし、彼が訴追されることはなかった。
 なんともはや、煮え切らないオチで申し訳ない。だけど、俺のせいじゃないからね。

(2008年12月18日/岸田裁月) 


参考文献

『殺人紳士録』J・H・H・ゴート&ロビン・オーデル著(中央アート出版社)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)


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