テイラー事件
The Taylor Case (アメリカ)



メイベル・ノーマンド

 メイベル・ノーマンドという名前のコメディエンヌを諸君は御存じであろうか? 「メイベルさん」の愛称で我が国でも親しまれ、ロスコー・アーバックルとのコンビで一世を風靡した御転婆娘のことである。チャールズ・チャップリンの最初の相手役も彼女である。しかし現在、彼女の名を知る者はほとんどいない。メイベルは何処に行ったのだ?

 メイベル・ノーマンドは1892年11月10日、ニューヨークのスタテンアイランドに生まれた。十代半ばからモデルを始め、17歳の時にマック・セネットにスカウトされて映画入りを果たす。当初は単なるエキストラ、セネット喜劇御馴染みの「水着美人」だったようだが、やがて、その快活さが見込まれてロスコー・アーバックルの相棒に抜擢。これが当って彼女は「喜劇王」の1ページにその名を連ねる。

 女性に手の早いチャップリンも、メイベルにだけは手をつけなかった。というのも、メイベルは彼の雇い主たるセネットと恋愛関係にあったからだ。二人は1915年の夏に結婚する予定だった。ところが6月の或る夜、メイベルはフィアンセの浮気を目撃してしまう。セネットが駆け出しの女優とホテルから出て来るところに出くわしてしまったのだ。
 二人は激しく云い争った。そこへ浮気の相手の煉瓦の一撃。後頭部を殴られたメイベルは脳震盪に陥り、回復までに3週間もの療養を要した。

 メイベルの転落はここから始まる。当然に婚約は破棄。すっかり意気消沈した彼女はひとり物思いに耽ることもしばしば。学校教育をほとんど受けていないメイベルだったが、フロイトやニーチェを読み始めた。しかし、孤独は癒えない。やがて彼女はコカインに手を出す。そんなドン底の時、一人の紳士が彼女に救いの手を差し伸べた。映画監督ウィリアム・デズモンド・テイラーである。メイベルの心はテイラーに傾いていく。しかし、運命の女神は意地悪である。二人の間に恋愛感情は芽生え始めたその時に、なんとテイラーを抹殺してしまうのである。



ウィリアム・デズモンド・テイラー


事件の舞台となったテイラー邸

「でぶ君」が例の事件の第二審で晒しものになっている頃、ハリウッドでまた一つ大スキャンダルが持ち上がった。1922年2月1日、ロス市内の閑静な住宅地、ウエストレイク地区アルバラード・コートにある自宅の書斎で、パラマウントの映画監督ウィリアム・デズモンド・テイラーが何者かに射殺されたのである。「でぶ君」を持て余していたところにまた一人。パラマウントの重役たちが頭を抱えたことは云うまでもない。

 テイラーの遺体は事件の翌朝、黒人の召使いヘンリー・ピーヴィーによって発見された。テイラーは書斎に仰向けに倒れていた。その表情は穏やかで、殺された形跡は何処にもなかった。しかし、こんな所で寝る馬鹿はいない。御主人様が死んでいることは明かだった。

「大変だあ! 御主人様が死んだあ! 御主人様が死んだあ!」

 ピーヴィーはかん高い声を張り上げて付近の住民を起こして回った。時刻は午前7時30分。隣人の一人、エドナ・パービアンス(チャップリン喜劇のヒロイン)は隣家の異変をパラマウントの重役、チャールズ・イートンに電話で知らせる。

 イートンの対応は素早かった。彼はテイラー邸近隣の部下に電話を掛けまくり、警察が来る前に邸内を「綺麗」にしておくよう命じた。禁酒法が施行されていた時代のことである。テイラー御自慢の密造酒コレクションのことが心配だったのだ。それに、パラマウントが抱える女優たちの息の根を止める手紙の類いがないとも限らない。こうしてロス市警がやって来るまでの20分の間に多くの「証拠」が運び出された。その頃にはイートン自身も現場に到着、部下の見逃した手紙をマメに「回収」してまわった。後日、証拠湮滅を非難されたイートンは、憤然としてこのように抗弁している。

「私はテイラーを含む罪もない人々をスキャンダルから守ろうとしただけだ」

 イートンも殺人事件と認識していれば、このような証拠湮滅は図らなかったことだろう。しかし、遺体の検分が始まったのは発見から1時間以上も経過してからだった。最初に到着した刑事は、遺体を一瞥しただけで、手帳に「自然死」と書き込んでいる。それほどにテイラーの表情は穏やかだったのだ。ところが、遺体を動かしてみて初めて殺人と判った。遺体の下にはドス黒い血だまりが隠されていたのだ。



事件を伝える当時の新聞

 イートンは何故にこれほどまで過剰にスキャンダルに怯えたのだろうか?
 その答えは『ロスコー・アーバックル』の項を読まれた方ならばもうお判りだろう。当時の映画産業はオリーブ・トーマス事件、ロスコー・アーバックル事件の余波で世論の集中砲火を浴びていた。ハリウッドは「悪徳の都」のレッテルを貼られ、全国各地で映画の排斥運動が巻き起こっていた。

 そんな気運の中でハリウッドが生き残る道はただ一つ、厳格な自主規制を引くことだった。こうして全米映画製作者配給業者協会(MPPDA)
は設立され、役員としてハーディング大統領時代の郵政長官、ウィル・ヘイズが就任した。報酬は年10万ドルと法外だったが、彼の連邦政府やフリーメイソン、その他多くの圧力団体へのコネは十分に報酬に見合うものだった。
 ヘイズは早速暗躍し、穏便に、しかし確実にマイヤーズ法案(ハリウッドを連邦政府の監視下に置く法案)の息の根を止めた。
 次いでヘイズは「検閲」を引いた。これがいわゆる「ヘイズ・コード」というやつである。
 更に、俳優や監督等、スタッフとの契約に「倫理条項」を盛り込んだ。つまり、スキャンダルに関わった者は映画会社が一方的に解雇できるとしたのである。この条項が故に映画生命を断たれた者は「でぶ君」を含めて117名。まだ俳優組合がなかった時代の、恐るべき切り札だった。

 まさにハリウッド史上空前の大粛正だった訳だが、そんな矢先に起きたのがテイラーの事件だった。イートンとしては何としてでもスキャンダルの根を摘み取っておかなければならなかった。しかし、これが却って裏目に出た。イートンの過剰な反応は大衆に「何か裏があるのではないか?」と勘繰らせるに十分だった。タブロイドは在らぬ事を書き立て、大衆の好奇の眼を刺激した。こうしてテイラー殺人事件は、放っておけば普通の殺人事件で終ったものを、なまじ手をつけたばかりに、でぶ君事件に匹敵する大スキャンダルに発展してしまった。



遺体の位置

 では、如何なる「在らぬ事」が書き立てられたのだろうか? ケネス・アンガー著『ハリウッド・バビロン』にはこうある。

《警察がテイラー邸に到着する頃には、家中がてんてこ舞いの忙しさだった。暖炉ではイートンがくべる不要書類がメラメラと燃え、傍らでエドナ・パービアンスが見守っている。メイベル・ノーマンドはここにあってはまずい手紙を探して部屋中ひっかき回している》

 この記述からしていきなり嘘である。エドナやメイベルはその時、証拠湮滅には荷担していなかったし、イートンにしても、現場で証拠を暖炉にくべるなどという無謀なことはしていない。

《とはいえイートンには、部屋の大掃除を徹底的に終らせるだけの時間はなかった。まず、引き出しの底にあったシナリオの中から、数枚のポルノ写真が発見された。名の知られた女優たちと写る一風変ったこの記念写真は、期せずして「女たらし」という生前の評判を裏づけるものだった。有名女優が数名呼ばれて尋問された。メアリー・ピックフォードもその中にいた。だが写真だけでは事件と結びつけることは出来ない。彼女はただ一言、「ご冥福をお祈りします」とだけ答えた》

 メアリー・ピックフォードといえば、チャップリンの親友ダグラス・フェアバンクスの妻にして「アメリカの恋人」の愛称で親しまれた清純派の大女優である。その「ポルノ写真」が発見されたのであれば、これはもう大スキャンダルだが、真相は彼女の額入り写真がテイラーの書斎にあったというだけのことらしい。



メアリー・マイルズ・ミンターからの手紙

《次いで、寝室の鍵がかかった戸棚からは、ユニークなランジェリーのコレクションが見つかった。その一枚一枚に日付とイニシャルを記した札がついている。どうやら果報者のテイラーは、秘めごとの相手からそれぞれ、おみやげを戴いていたらしい》

 どうしたらこうした尾鰭が付くのだろうか? 寝室で発見されたのは女物のナイトガウン一枚きり。しかも、日付もイニシャルもない、面白くもなんともない代物だった。
 この他にもテイラーは「色情教団」の信者だったとか、男色家だったとか、アヘン中毒だったとかがまことしやかに書き立てられた。勿論、中心となったのはハースト系の新聞だった。
 こんなのもある。

《更に書斎の捜査が進むと、アレイスター・クローリーの猥褻本「白い染み」の間から一通の手紙が出てきた。淡いピンクの便箋に、頭文字M・M・Mを図案化した飾り文字が入っている。誰もが眼をつりあげた。メアリー・ピックフォードの対抗馬としてパラマウントが鳴り物入りで売り出した清純派、メアリー・マイルズ・ミンターのものではないか!》

 クローリー(有名な悪魔主義者)の本の間に挟まっていたというのは嘘八百だが、彼女の恋文が発見されたことは、残念ながら事実である。

「最愛の人へ。
 好きです。好きです。好きです」

「ヨシコさ〜ん!」と思わず叫びたくなるような文面だが、そんなことはどうでもよろしい。とにかく、この手紙の存在が故に彼女のキャリアは断たれた。そして、このことは後述するが、メアリーこそが事件の謎を解く鍵だったのである。



メアリー・マイルズ・ミンター


メアリーとその母シャーロット・シェルビー

 メアリー・マイルズ・ミンターはルイジアナ州に生まれた。その生年の正確なところは判らない。テイラーのスキャンダルに巻き込まれた時、公称「はたち」の彼女は実は「みそじ」と暴露されたからだ。しかし、彼女の経歴を見る限り、それほど年増ではなかったようである。

 シャーロット・シェルビーの娘として生まれたことが、彼女の悲劇の始まりだったように思える。シェルビー夫人は人一倍の野心家で、1907年、家庭を捨ててニューヨークに繰り出す。自らが女優として大成するためである。しかし、野心と才能は噛み合わない。断念した彼女は二人の娘に野望を託す。ところが、長女のマーガレットは母親似のでくのぼう。そこで、次女のメアリーに期待を寄せる。これが当った。メアリー6歳(公称)の時にシカゴでの舞台が大評判をとったのである。やがてこのステージママは映画の都、ハリウッドに眼を向ける。
「ここで当れば大金持ちよ!」
 1916年だけでも14歳(公称)のメアリーは計26本もの映画に出演した。そして1918年、ステージママの野望は達成された。最大手パラマウントとの5年契約を勝ち取ったのである。契約金はなんと130万ドル。ああ、笑いが止まらない。ステージママとしての彼女の仕事はこれで終った。残された彼女の仕事は金勘定と、娘を自分に縛りつけておくことだった。

 とにかくシェルビー夫人は、娘の生み出す金の亡者と成り果てていた。そんな彼女の強欲は以下の事件に象徴される。
 1917年、15歳(公称)のメアリーは、母親に内緒で20歳も年上の俳優と、サンタバーバラの丘の上でささやかな結婚式を挙げた。早い話がカー・セックスである。そして、新郎の精子は見事命中、新婦は妊娠するに至った。これを知ったシェルビー夫人は怒るまいこと。メアリーは本気で結婚を考えていたが、母親は堕胎を強要した。曰く、

「あんた、これからが稼ぎ時だってのに何考えてんのよ!」

 母親にとって娘が結婚するということは、すなわち財布が別になることを意味する。したがってシェルビ ー夫人としては娘が稼げる間には、その結婚を何としてでも阻止しなければならなかった。

 こうした守銭奴を母に持つ娘の悲惨たるや如何ばかり。事実、メアリーは何度か自殺を試みている。そんな折、彼女はテイラーと出会った。そして。自らの不幸な境遇に気づかうこの中年紳士にメロメロになってしまったのだ。
 これに気づいた母親は黙っていない。公衆の面前でテイラーを口汚く罵る。

「今度メアリーに少しでも近づいたら、あんたの脳ミソを吹っ飛ばしてやるから覚悟しておき!」

 しかし、テイラーにとっては迷惑な話である。彼はメアリーに父親以上の感情を抱いていなかった。彼には気を引かれるもう一人の女性がいた。その女性とは、もうお判りであろう、ヤク中のメイベル・ノーマンドである。



チャップリンとメイベル・ノーマンド

 テイラーをアヘン中毒と断じた記事はトンデモない中傷である。彼はメイベルの更正にあらゆる尽力を惜しまなかった。サナトリウムを紹介し、入院を強く勧めた。彼女は説得に応じたが、1年後には逆戻り。1921年の大晦日、パーティーで出会った二人は激しく口論した。彼女がまたしてもラリラリだったのだ。テイラーを自宅へと送り届けた運転手は、御主人様の男泣きを目撃している。やがて彼は行動に出る。メイベル邸前に張り込み、うろつく売人に殴りかかる。勿論テイラーが逆に殴られてノックアウト。しかし、メイベルは心を動かされた。
「ああ、この人は本当に私のことを思ってくれているんだわ」
 二人が急接近したのはこの時からである。

 しかし、二人の蜜月は2ケ月と続かなかった。1922年1月31日、運命の日は訪れた。そんなことを知らないテイラーは、いつものように仕事を終えて、書店に寄るとニーチェの本を購入した。メイベルへのプレゼントである。夕食を終えて午後7時、メイベルがテイラー邸を訪れた。しばしの談話の後、7時45分にメイベルは帰宅。8時前には召使いのピーヴィーもお暇まする。8時をちょうど回った頃、まるでピーヴィーの帰りを待っていたかのように、この閑静な住宅地に銃声が響き渡る。隣家のマクリーン夫人が顔を出すと、男が一人テイラー邸の敷地にいた。コートの襟を立て、マフラーを顎まで巻き、帽子を被ったその男は、彼女に気づくと微笑みかけ、テイラー邸の玄関の方角に歩いていった。

 もう一人の隣人、エドナ・パービアンスがこの日、テイラー邸を訪ねた最後の人物である。パーティ帰りの彼女は、まだテイラー邸から明りが洩れていることに気づき、素敵なパーティの報告に出向いた。時刻は11時45分。ベルを鳴らしたが誰も出てこなかった。そりゃそうだろう。この家の主人は既に冷たくなっていたのだから。

 では、そろそろ核心に触れよう。
 テイラーを殺したのは誰なのか?。
 読者諸君ももうお判りかと思うが、 どう考えてもシェルビー夫人より他にいないのだ。

 警察も彼女の犯行を確信していた。このハリウッドでも指折りの嫌われ者は馬鹿で短気で強欲で、打ち手の小槌たる娘のためなら何でもした。娘に色眼を使った多くの者が「殺してやる」と脅迫された。あの女なら殺しかねない。誰もがそう考えた。
 にも拘らず、彼女が逮捕されなかったのは何故か? 彼女が担当検事トーマス・リー・ウールワインと旧知の間柄だったからである。メイベルを初め多くの関係者が尋問されたが、彼女だけは尋問されることはなかった。検事の口座に多額の振込がなされたであろうことが容易に想像できる。
 しかし、この腐れ検事も1925年に他界。後任の検事は早速シェルビー夫人を尋問したが、彼女は少しも動じない。売れない俳優カール・ストックデイルと、それからもう一人、ジム・スミスという男と一緒に自宅にいたというのである。もちろん検事は信用しない。スミスは先の腐れ検事の部下だったからだ。更に、検事はストックデイルの体型がマクリーン夫人が目撃した「男」に酷似していることにも気づいた。しかし、この3名がダンマリでは捜査は進展しない。かくしてシェルビー夫人はまんまと逃げ延び、事件は迷宮入りとあいなるのであった。



ロスコー・アーバックルとメイベル

 ところが、抜け目がないシェルビー夫人は、たった一つだけ致命的なミスを犯した。彼女はこの事件で娘が被るダメージを予想できなかった。娘がこれに追い打ちをかける。彼女はテイラーの葬式で、数多の新聞記者を前にして遺体に接吻して見せた。そして、錯乱してひと暴れ。

「しゃべったわ! 彼がしゃべったの! いつまでも愛してるよ、メアリーって!」

 シェルビー夫人は打ち手の小槌を失った。清純派メアリー・マイルズ・ミンターの女優生命はこれで終った。失意の内にシェルビー夫人は1957年に死亡。85歳だった。一方、娘のメアリーは母を避け、悲嘆に明け暮れ、ぶくぶく太って、一生を独身のまま1984年に死亡。82歳だった。云うまでもないだろうが、その後の人生は頭が幾分おかしくなっていた。

 世間知らずの馬鹿娘の熱烈なる片思いのおかげで、その馬鹿母に殺されたテイラーであったが、まあ、自分で蒔いた種と云えないこともない(そんな馬鹿親子に関わりを持ったという意味で)。ところが、巻き込まれたメイベルとしては堪らない。コカイン中毒が暴露され、新作はお蔵入りにされてしまう。それでも、メイベルの将来はメアリーほどは絶望的ではなかった。が、ついていない時はついていないものである。運命の女神はまたしてもメイベルに意地悪する。
 事件から2年後の1924年1月1日、メイベルはエドナ・パービアンス邸でのニューイヤー・パーティーで、またしてもラリラリになっていた。そこへメイベルの運転手ジョー・ケリーが迎えに来る。この時、何が起こったのかは判らない。とにかく、ケリーとエドナの恋人、コートランド・ダインズが云い争いを始めた(ダインズがメイベルを中傷したのかも知れない)。逆上したケリーが拳銃を取り出す。そして、ダインズの胸に3発の銃弾を撃ち込んだ。
 幸いにしてダインズは死ななかったが、この事件が故にメイベルの女優生命は断たれた。翌日の新聞にはこうある。

「メイベルは家族で観るには不潔すぎる」

 そんなことはないんだけどなあ、と思いながら彼女のその後を調べて仰天した。なんと1930年に死亡。結核を患ったのだ。37歳だった。



法廷で争うシェルビー夫人と長女

 最後に、1937年にシェルビー夫人の長女マーガレットが財産を巡り母親を訴えた事件について簡単に触れておこう。
 この事件においてマーガレットは、母親こそがテイラー殺しの犯人だと非難したのである。

「この女は人の心臓を抉り出すぐらい、平気でやってのけるのよ。例えはした金でもね」

 しかし、財産問題が解決すると、マーガレットは再び沈黙した。この親にしてこの子あり。こういう馬鹿な人々は、集めてまとめて燃やしてやりたくなるのだが、どんなもんだろうか?


参考資料

『ハリウッド・バビロン』ケネス・アンガー著(リブロポート)
『未解決殺人事件』タイムライフ編(同朋舎出版)
『世界醜聞劇場』コリン・ウィルソン著(青土社)
『殺人の迷宮』コリン・ウィルソン(青弓社)


 

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