ジェーン・トッパン
Jane Toppan (アメリカ)


 

 時には女性の方が大胆である。理由もなくドンドコ殺す。ジェーン・トッパンを見よ。驚くなかれ31人の殺害を認めたのだ。しかも、実数はそれを遥かに上回ると見られている。70人から100人の間というから呆れる他ない。
 アメリカはスケールが大きいなあ。

 ジェーン・トッパンは1854年、マサチューセッツ州ボストンの貧しい家庭に生まれた。当初の名前は「ノラ・ケリー」だった。母親は彼女を産んで間もなく亡くなり、父親のピーターはまだ幼い4人の娘を一人で育てなければならなくなった。その心労のためか、それとも、もともと狂気を抱えていたのかは定かではないが、とにかく勤め先の仕立て屋で自らの瞼を縫い合わせて癲狂院送りとなった。

 孤児院に入れられたノラは、5歳の時にトッパン夫人に引き取られた。この時にジェーン・トッパンという新しい名前が与えられたが、正式に養子になったわけではない。シンデレラのように下女としてこき使われていたようだ。
 いびられて育てられれば心がネジ曲ってしまうのも道理。トッパンがいよいよヤバくなり始めたのは、20歳の時に婚約者に捨てられてからだ。2度の自殺未遂を経て、我々が知る怪物に変貌する。

 やがて失恋の痛手から立ち直ったトッパンは、26歳の時にケンブリッジ病院に看護婦見習いとして入学する。そして、この時から疑惑が始まる。彼女が担当していた患者2人が立て続けに急死したのだ。原因は不明だが、どう考えても彼女が怪しい。しかし、悪い評判が立つことを恐れた病院はトッパンを免職するに留めた。

 1880年から1901年までの間、トッパンは住み込み看護婦として働きながら各地を転々とした。そのたびに主人が、そして家族が死んだ。いったい何人殺したのか、その正確な数は判らない。おそらく彼女自身にもよく判らないのではないだろうか。

 1901年7月4日、トッパンが看護していたマティー・デイヴィス夫人が息を引き取った。その献身的な働きを見てきた故人の家族は、これまで同様に家の世話をしてくれるように彼女に頼んだ。すると、続けざまに娘のアニー、夫のオールデン、もう一人の娘のメアリーが後を追った。船旅から帰還したメアリーの夫ギブス船長は仰天した。なにしろわずか6週間で一家が全滅してしまったのだ。これはさすがにおかしいと警察に通報、掘り起こされた家族の遺体からは致死量のモルヒネが検出された。

 1901年10月29日に逮捕された時、トッパンはニューハンプシャー州のニコルズ家で住み込み看護婦をしていた。
「刑事さんが訪れなかったら、ジョージ・ニコルズは今頃は冷たくなっていましたわ」
 まったく悪怯れることのないトッパンは、31件にも及ぶ殺人を誇らしげに供述し始めた。
「みんなすっかり私に騙されたわ。馬鹿な医者も、間抜けな親類も」
 起訴状を読み上げられると、
「砒素ですって? 私、砒素を使ったことなんか一度もないわよ。不勉強ね。砒素なんか使ったらゲーゲー吐いて大変なのよ。すぐにバレてしまうわ。だから私はモルヒネとアトロピンを併用するの。アトロピンはね、モルヒネの症状を判らなくする効果があるのよ。だけど、速効性がないのが残念なのよね」
 こりゃキチガイだろうということで精神鑑定に回されると、
「あたし、狂ってなんていないってば。あんたたちだって知ってるくせに。善悪の区別はちゃんとついてますう」
 ああ、うぜえ。よくこんなキチガイ、20年も野放しにしてたなあ。
 彼女の抗議にも拘わらず癲狂院に入れられたトッパンは、数々の奇行で名物おばさんとなった挙句、1938年8月17日に死亡。享年84とはびっくりだ。生きやがったなあ。

(2007年1月7日/岸田裁月) 


参考文献

『連続殺人紳士録』ブライアン・レーン&ウィルフレッド・グレッグ著(中央アート出版社)
『SERIAL KILLERS』JOYCE ROBINS & PETER ARNOLD(CHANCELLOR PRESS)


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