クラウス・フォン・ビューロー
Claus von Bulow (アメリカ)



クラウス・フォン・ビューロー


サニー・フォン・ビューロー


アレクサンドラ・アイルズ

 クラウス・フォン・ビューローは1926年8月11日、コペンハーゲンで生まれた。フォン・ビューローは母方の姓で、ドイツ貴族の家系だった。祖父のフリッツ・フォン・ビューローは元法務大臣であることから、かなりの名門であることが伺える。また、父親のセヴェン・ボルベアは劇作家で、ナチスのシンパだった。
 ナチスがデンマークに侵攻した2年後の1942年、クラウスはイギリスに渡り、ケンブリッジ大学で法律を学んだ。そして、戦後に法律事務所を開業した。極めて有能な弁護士だったようだ。
 1959年、その腕前を見込まれたクラウスは、アメリカの石油王J・ポール・ゲティに招かれて顧問になった。否。顧問というよりも右腕というべきだろう。飛行機が嫌いなゲティに代わって世界中を飛び回り、契約を取りつけるのが彼の主な仕事だった。かくしてクラウスは弁護士の枠を飛び越えて、ビジネスマンとしても活躍し始めた。

 そんなクラウスがサニー・クロフォードと初めて出会ったのは1960年のことだった。その後もたびたび社交界で顔を合わせ、互いに親交を深めて行った。当時の彼女はオーストリアの公爵、アルフレッド・フォン・アウエルスペルクと結婚していたが、夫婦の間は冷えきっていた。そして、1965年に離婚したのを機にクラウスが求婚し、1年後の1966年6月6日、2人は結婚したのである。

 サニー・クロフォードは1931年9月1日、コロンビア・ガス&エレクトリック・カンパニーの創業者、ジョージ・クロフォードの一人娘として生まれた。彼女が生まれた時、クロフォードは71歳と高齢であったため、3年後には他界し、彼女はその巨万の富を相続した。
 母親のアニー=ローリーにより蝶よ花よと育てられた彼女は、1957年にオーストリアの公爵だが無一文のアルフレッド・フォン・アウエルスペルクと結婚し、アレクサンダーアニー=ローリーという2人の子供をもうけるも、離婚したのは前述の通りである。

 独身貴族としての生活を満喫していたクラウスが、どうしてコブつきのバツイチと結婚する気になったのか? 云うまでもないだろう。彼女は億万長者なのだ。彼女と結婚しさえすれば、これまでのようにあくせくと働く必要はないのである。事実、1968年にはゲティのもとを離れ、趣味の古美術蒐集や演劇の後援にのめり込んで行く。

 2人の結婚生活は10年ほどは円満だったようだ。コージマという次女にも恵まれ、ニューヨーク5番街の高級マンションで仲睦まじく暮らした。やがてサニーは家族のために、ロードアイランド州ニューポートの「クラレンドン・コート」と呼ばれる大豪邸を購入した。以下がその住所である。
「Bellevue Ave & Yznaga Ave, Newport, RI」
 ちなみに、このヴィクトリア朝様式の邸宅は1956年の映画『上流社会』の撮影現場として知られている。

 2人の仲が険悪になり始めたのは1979年のことだった。理由はクラウスによれば「妻がもはやセックスに興味を示さなくなったから」。故に高級娼館に足繁く通い、女優のアレクサンドラ・アイルズと密会を重ねたのである。ちなみに、彼女は1966年から71年まで放映された異色ソープオペラ『ダーク・シャドウ』のレギュラー出演者だった(但し、彼女が出演したのは68年まで)。
 一方、サニーは自室に引き蘢り勝ちになり、専ら読書とスウィーツを食べて過ごすようになった。結婚生活は事実上、破綻していたと云ってよい。いつ離婚してもおかしくない状態だったのである。


 1980年12月20日、クリスマスを迎えるために「クラレンドン・コート」に滞在していた夫妻と長男のアレクサンダー、次女のコージマの4人は、夕食を早めに済ませて近くの映画館に出かけた。上映していたのはジェーン・フォンダ主演のコメディ『9時から5時まで』だった。
 帰宅したのは午後9時頃だった。クラウスは電話で仕事の打ち合わせをするために書斎に退き、残りの3人は図書室で談話をしていた。サニーだけがジンジャーエールを飲んでいた。すると、次第にサニーの様子がおかしくなり、何を云っているのか判らなくなった。立ち上がるとフラフラとよろけた。アレクサンダーは彼女に駆け寄って抱きかかえ、寝室まで連れて行った。

 翌朝の午前5時30分に目覚めたクラウスは、いつものように新聞に目を通し、海岸を散歩した後、シェアソン=アメリカン・エキスプレスの共同経営者に電話を掛けた。そして、1時間ほど財務報告書を巡って討論した後、頭を冷やすために再び散歩に出かけた。
 帰って来たのは午前11時頃、アレクサンダーとコージマが朝食と摂っているところだった。しかし、サニーの姿が見えない。どうしたんだと訊ねると、まだ寝ているという。クラウスは様子を見るために寝室に行った。そして、バスルームに横たわる彼女の姿を発見した。洗面台の水は流しっぱなしだった。まだ呼吸をしていたが、身体は驚くほど冷たかった。クラウスは直ちに救急車を要請した。

 病院に運び込まれた時、サニーの体温は26度ほどしかなく、脈拍数は低下し、瞳孔が収縮していた。担当医師は念のために注射針の痕を探したが、見つけることは出来なかった。
 やがて彼女は心拍停止に陥った。医師が人口呼吸を施したおかげでどうにか息を吹き返したが、危篤状態であることには変わりない。医師は意識を失った患者が血糖値の低下を起しているかどうかを判断する通常の処置として、ブドウ糖の注入を何度も試みた。しかし、血糖値は下がるばかりだった。彼女の血中に過剰なインシュリンが存在していたのである。
 結局、サニーの意識が戻ることはなかった。そのまま「植物人間」になってしまったのだ。

 母親の病状を義父の仕業と疑ったアレクサンダーは、探偵を雇ってその身辺を調べさせた。結果、クラウスの衣装ダンスから小さな黒いバッグが「発見」された。中には精神安定剤の薬瓶や注射器が入っていた。そして、使用済みの注射針からインシュリンの痕跡が検出された。
 かくして、クラウス・フォン・ビューローは義理の息子の告発により、殺人未遂の容疑で逮捕された。保釈金は10万ドル。パスポートは没収された。


 公判の冒頭で、検察官は1年前の1979年12月26日にもサニーが同様に昏睡状態に陥り、病院に運ばれた旨を明らかにした。
 加えて、女中のマリア・シュラルハマーが、その際にクラウスが医師への通報を故意に遅らせたと主張した。また、彼女は前述の黒いバッグに言及し、その中にインシュリンの薬瓶が入っているのを2度ほど見た旨を証言した。
 そして、サニーの主治医はこのように証言した。
「たしかに彼女は反応性低血糖症でしたが、昏睡を引き起こすほどのインシュリンが自然分泌されることはあり得ません。人工的に投与されたものに間違いありません」
 これを裏づける物証として、黒いバッグと注射針が提出されたことは云うまでもない。
 では、動機は? たしかに結婚生活は破綻していたが、サニーは浮気を黙認していた。それにクラウスは既に十分な個人資産を得ている。殺す必要などなかったのではないか?
 この点を補強したのが愛人のアレクサンドラ・アイルズだった。彼女は法廷で「離婚しなければ別れる」とクラウスに迫った旨を証言したのだ。
 動機は些か曖昧だが、証拠はクラウスの犯行を裏づけているように思えた。かくして陪審員は有罪を評決し、クラウスには30年の刑が云い渡された。

 しかし、上訴審では一転して無罪になった。何故か? 女中のマリアの証言が極めて疑わしいことが露呈したからである。彼女が黒いバッグのことを云い出したのは、サニーの血中から大量のインシュリンが検出されたとの報告を聞かされた後のことだったのだ。
 また、最初の昏睡が低血糖に基づくものでないことが担当医師の証言により明らかになった。
 そして、例の注射針である。証言台に立った薬物学者はこのように述べた。
「使用済みの注射針から発見された残留物はインシュリンかも知れないが、それは同時にその注射針が一度も使われていないことを意味している」
 つまり、実際に注射した後に抜き取られた注射針は、皮膚により拭い去られるので残留物が残らないのだ。
 また、2度目の昏睡も、彼女が常用していた薬物によって誘発され、冷たいバスルームの床に横たわっていたことから生じた体温低下に基づくものである可能性が示唆された。かくして「疑わしきは被告人の利益に」の原則に従い、クラウスは無罪となったのである。


 私が クラウス・フォン・ビューローの無実を確信したのは、トーマス野口著『検死解剖』の以下の記述を読んだ時だった。
「インシュリンは冷蔵保存されなければならないのである。過去2年間に開発された新しいインシュリンにはその必要がないが、サニーの昏睡が生じた時期に流通していたインシュリンは冷蔵庫に保管しないとすぐ使いものにならなくなる」
 つまり、マリアの証言が真実ならば、黒いバッグの中にあったインシュリンは効力を失っていたのだ。それでどうして昏睡を起せるというのだ? 彼女の証言は嘘っぱちだったと云わざるを得ない。おそらく彼女はアレクサンダーに買収されて偽証したのだろう。そして、例の黒いバッグもアレクサンダーが偽造したのだ。そうでなければ説明がつかない。
 なお、トーマス野口氏によれば「昏睡を引き起こすほどのインシュリンが自然分泌されること」は稀ながらあり得るのだそうだ。私は医学に疎いので詳しい解説は割愛するが、サニーの場合もその稀なケースだったのかも知れない。


 ちなみに、アレクサンダーはその後もクラウスの犯行である旨を主張し、彼に5600万ドルの損害賠償を請求した。結果、彼はサニーが残した財産の相続権を失った。現在はロンドンで演劇評論家として暮らしている。
 一方、サニーは2008年12月6日、遂に目覚めぬままに死亡した。28年間も寝たきりだった。

 本件は1990年に『運命の逆転(Reversal of Fortune)』のタイトルで映画化されているので、御存知の方も多かろう。クラウス・フォン・ビューローをジェレミー・アイアンズが、サニーをグレン・クローズが演じている。この2人はまさにハマリ役だった。ジェレミー・アイアンズは本作でアカデミー賞主演男優賞を受賞している。

(2011年2月16日/岸田裁月) 


参考資料

『運命の殺人者たち』J・R・ナッシュ著(中央アート出版社)
『検死解剖』トーマス野口(講談社)
『世界犯罪百科全書』オリヴァー・サイリャックス著(原書房)
http://en.wikipedia.org/wiki/Claus_von_Bulow
http://en.wikipedia.org/wiki/Sunny_von_Bulow
http://en.wikipedia.org/wiki/Alexandra_Isles


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