ティエリー・ポーリン
Thierry Paulin
a.k.a. the Monster of Montmartre (フランス)



ティエリー・ポーリン

 1984年10月から87年11月にかけて、パリの18区では「モンマルトルの怪物」と呼ばれる連続殺人犯が暗躍していた。犠牲者はすべてが独り暮らしの老婦人で、目的は物盗りである。性的な危害が加えられた例は1件もない。但し、殺害方法は多岐に渡り、絞殺に刺殺に撲殺等。中にはビニール袋による窒息死や、排水管洗浄剤を飲ませるという凄惨な手口もあった。

 被害者は3年で20人にも及んでいた。しかし、犯人は最後の犯行でミスを犯した。被害者の死を確認しなかったのだ。かくして、彼女の証言により「モンマルトルの怪物」の容姿が判明した。
「カール・ルイスのような髪型をした20代の黒人。左耳にイヤリングあり」
 そのまんまの容姿のティエリー・ポーリンがパリの街角で職務質問され、警察署に連行されたのは1987年12月1日のことである。間もなくポーリンは犯行を認め、最後にポツリと告白した。
「俺、エイズなんだ」

 ティエリー・ポーリンは1963年11月28日、西インド諸島のマルティニークで生まれた。父親は間もなく家族を捨ててフランスに渡り、ポーリンは父方の祖母に育てられた。10歳頃に母親に引き取られるが、継父との折り合いが悪くて手に負えない。かくしてポーリンは実父のいるパリに送り出されたのである。
 バリでの生活はポーリンにとっては過酷なものだった。マイノリティである彼は何かと差別されたのだ。17歳で軍に入隊した時も、差別ゆえに除隊を余儀なくされた。ゲイでもあった彼は二重に差別されたようだ。そして、1982年11月には強盗容疑で逮捕された。差別が齎した転落人生である。

 しかし、出所後の彼の人生は一旦は上向いたかに思われた。有名なナイトクラブ『パラディ・ラタン』でウェイターとしての職を得た彼は、間もなくアーサー・キットの物真似が支配人に評価されて、女装してステージに立つようになったのだ。このまま何事もなければポーリンはショー・ビジネスの世界で成功していたのかも知れない。
 そんなポーリンの足を引っ張ったのは、恋人のジャン=ティエリー・マテュランだった。2人は『パラディ・ラタン』で知り合い、深い仲になったわけだが、マテュランはヤクの売人だったのだ。当然の成り行きとしてポーリンもヤクに溺れ、自らも売人となり、そして、資金を手に入れるために強盗を働かなければならなくなったのである。

 1984年10月から11月にかけての9件に関しては、マテュランも共犯者として加担していた。ビニール袋による窒息死や排水管洗浄剤を飲ませる等の残虐な犯行はこの頃のものだ。おそらくヤクでラリった挙げ句の犯行だったのだろう。
 そんな2人の関係が破局を迎えたのは12月のことである。ポーリンの父親がマテュランを「息子の恋人」として認めなかったことが原因らしい。
 その後、しばらくは「モンマルトルの怪物」の犯行は治まる。再び活動を始めたのは翌1985年12月の暮れになってからだ。犯行は翌1986年6月まで断続的に8件続いた。
 その後、再び犯行が途絶えたのは、ポーリンがヤクの売人を暴行した容疑で逮捕されたからだ。そして、ムショの中で知ったのだ。己れがHIV陽性であることを。

 出所後のポーリンは自棄になっていたのだろう。1987年11月25日には2人、2日後には1人と立て続けに殺め、11月28日に襲った老婦人を殺し損ねたために遂にお縄となった次第である。
 ちなみに、11月28日は奇しくも彼の24回目の誕生日だった。何やら因縁が感じられる。

 結局、ポーリンは裁判を受けることなく、1989年4月16日にエイズのために死亡した。
 一方、かつての相棒たるマテュランは9件の殺人で有罪になり、終身刑を宣告された。但し、2009年1月に仮釈放されている。

(2009年11月29日/岸田裁月) 


参考資料

『連続殺人紳士録』ブライアン・レーン&ウィルフレッド・グレッグ著(中央アート出版社)
http://en.wikipedia.org/wiki/Thierry_Paulin


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