ロナルド・ジーン・シモンズ
Ronald Gene Simmons (アメリカ)



ロナルド・ジーン・シモンズ

 1975年3月30日、オハイオ州ハミルトンにおいてジェイムス・ルパートなるボンクラが、家族を11人も殺害して大騒ぎになった。この数は家庭内殺人のワールドレコードで、ちょっとやそっとでは破れそうになかった。ところがどっこい、12年後にあっさりと記録を更新する輩が現れた。ロナルド・ジーン・シモンズ(47)。家族14人、ほか2人の〆て16人を殺害、併せて4人に重傷を負わせたトンデモねえ男である。

 ロナルド・ジーン・シモンズは1940年7月15日、イリノイ州シカゴで生まれた。17歳の時に学校を中退して海軍に入隊。赴任先のニューメキシコ州でレベッカ・ウリバリと恋仲になり、籍を入れたのが1960年7月9日のことである。
 7人の子宝に恵まれ、家庭は円満かに思われた。ところが、実際にはそうではなかったことが1981年4月に発覚する。当時17歳の長女シェイラが妊娠し、孕ませたのが父親たるシモンズであることが当局の調べで明らかになったのである。
 退役軍人であるシモンズは、当時は誰からも敬意を表される立場にいた。そんな男が近親相姦の容疑をかけられたのである。たまったもんじゃねえぜってな心境だったのだろう。逮捕状が出る前に家族そろって逐電。ニューメキシコ州クラウドクロフトからアーカンソー州ラッセルヴィルに移り住む。

 その後のシモンズは低賃金の職に就き、糊口を凌いでいた。それは会社の清掃員だったりスーパーの雑役係だったりした。退役軍人としてのプライドがある彼にとっては、さぞかし辛かったことだろう。それでもどうにか我慢して年長の子らを育て上げたが、ちょいちょいセクハラをやらかしてクビになっている。娘を犯してしまうぐらいだから、どうしようもないスケベ人間なのだろうな。最後の勤務先はシンクレア・ミニ・マート。後に惨劇の舞台となる場所なのだが、1年半ほど勤めた後、1987年12月18日にクビになっている。

 その4日後の12月22日、どういうわけか家族を皆殺しにすることを決めたシモンズは、近くのウォルマートで22口径の銃を購入。帰宅後に以下の者を殺害した。

 レベッカ・シモンズ(妻・銃殺)
 ロナルド・シモンズ・ジュニア(29・長男・銃殺)
 バーバラ・シモンズ(3・ロナルド・ジュニアの娘・絞殺)

 やがて年少の子供たちが学校から帰宅した。シモンズは彼らも帰宅の順に殺害した。

 ロレッタ・シモンズ(17・次女・絞殺)
 エディ・シモンズ(14・三男・絞殺)
 マリアンヌ・シモンズ(11・三女・絞殺)
 ベッキー・シモンズ(8・四女・絞殺)
 
 その4日後の12月26日、共に新年を迎えるために訪れた子供たちとその家族を殺害した。

 シェイラ・マクナルティ(24・長女・銃殺)
 デニス・マクナルティ(33・シェイラの夫・銃殺)
 シルビア・マクナルティ(7・シェイラの娘・絞殺)
 マイケル・マクナルティ(1・シェイラの息子・絞殺)
 ウィリアム・シモンズ(23・次男・銃殺)
 レネタ・シモンズ(21・ウィリアムの妻・銃殺)
 トレ・シモンズ(1・ウィリアムの息子・絞殺)

 ちなみに、シルビアはシモンズがシャイラを犯した挙げ句に生まれた子なので、実際には孫ではなく五女である。

 かくしてシモンズは一家の皆殺しを終えたのであるが、彼の狼藉はこれに留まらなかった。彼にはまだまだ始末するべき者がいた。それは己れのプライドを踏みにじった奴らだった。だが、12月26日は土曜日で、かつての職場は開いてない。故に月曜日まで遺体と共に待つことになる。

 12月28日、町に繰り出したシモンズは、まずピール・エディ&ギボンズ法律事務所に出向き、以下の者を射殺した。

 キャシー・ケンドリック(秘書兼受付)

 彼女はこれまでたびたびシモンズからデートに誘われていた。
 次いで、テイラー・オイル・カンパニーを訪れたシモンズは、以下の者を射殺した。

 J・D・チャフィン(従業員)

 彼はシモンズのかつての同僚だった。シモンズの本来の標的は経営者のラッセル・テイラーだったのだが、彼は幸いにも一命を取り留めている。
 その後、先述のシンクレア・ミニ・マートで2人の従業員に重傷を負わせたシモンズは、ウッドライン貨物運輸社に訪れて、従業員1人に重傷を負わせた後、事務員の女性に命じて警察に通報させた。
 その際、シモンズは彼女にこう述べている。
「私がやりたかったことはもう終わった。私を傷つけた奴らはみんな死んだ」
(I’ve come to do what I wanted to do. It’s all over now. I’ve gotten everybody who wanted to hurt me.)

 かくして逮捕されたシモンズは、一切の弁護を拒み、罪状をすべて受け入れた。但し、検事が動機として「シェイラに宛てた手紙」を提出すると、シモンズは猛然と検事に向かって突進し、その提出を阻んだという。やはりシェイラとの近親相姦の一件が犯行の重要な要素となっていたのだろう。
 判決は死刑。上訴することなく、1990年6月25日に薬物注射により執行された。
 ちなみに、執行を許可したのは、当時のアーカンソー州知事だったビル・クリントンである。

(2010年12月19日/岸田裁月) 


参考資料

『THE ENCYCLOPEDIA OF MASS MURDER』BRIAN LANE & WILFRED GREGG(HEADLINE)
http://en.wikipedia.org/wiki/Ronald_Gene_Simmons
http://www.users.on.net/~bundy23/wwom/simmons.htm
http://www.encyclopediaofarkansas.net/encyclopedia/entry-detail.aspx?entryID=3731
http://www.clarkprosecutor.org/html/death/US/simmons131.htm


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