服部隆


 

 アメリア・ダイアーミニー・ディーンに代表される「里子殺し」は海外に限ったことではない。我が国でも類似の事件が頻発している。

 大正6年(1917年)5月10日午後9時頃、千住警察署の警官が警邏していたところ、乳飲み子を抱いた若い女に道を訊ねられた。警官が道を教えると、女は礼を云って立ち去った。
 30分ほどして、警官が同じ場所を通り掛ると、先ほどの女と再びすれ違った。ところが、このたびは女は乳飲み子を抱いていない。不審に思って詰問したところ、女はこのように釈明した。
「実は、生まれた子に養育料10円を添えて、服部という男に預けて来たところです」
 女は豊多摩郡淀橋町の某医院の女中で、同家の書生と恋仲となり、4月30日に女児を分娩した。ところが、相手は書生の身分。とてもじゃないが育てることは出来ない。はて、どうしたものかと思案していたところ、知人に服部なる男を紹介されたのだという。
 警官は不審感を募らせた。というのも、先ほど女が訊ねた住所は、生活に余裕がある者が住む地域ではないからだ。ひょっとしたら養育費目当ての子殺しではないのか? 翌日にも服部隆宅を訪ねると、案の定と云うべきか、2人いた乳飲み子のうち1人はガリガリに痩せ細っていた。
 追求された服部は、当初は、
「病気になっても金がなく、医者にかけられないために死なせてしまった」
 などと釈明していたが、間もなく養育費目当ての子殺しを認めた。この男は嬰児を貰い受けて餓死させることを生業としていたのだ。

 服部隆(48)がこのビジネスを始めたのは前年5月のことである。然る高等小学校校長夫人が生んだ双子のうち1人を20円の養育料と共に貰い受け、餓死させたのを皮切りに、加藤いし(48)と共謀して、ワケ有りの嬰児を貰い受けては「間引き」していたのだ。時には絞殺することもあったという。そして、遺体は近所の溝や田圃に遺棄した。その数は自供しただけでも11人に及んだ…。

 なんともやりきれない事件だが、類似の事件は枚挙に暇がない。
 例えば、明治38年(1905年)には佐賀県佐賀市で、60人以上の嬰児が殺害される事件が発覚している。
 大正12年(1923年)には、山ノ井武平(35)なる男が、3ケ月余りの間に21人の貰い子を殺害したとして渋谷署に逮捕されている。
 年号が昭和と変わってからも、板橋貰い子殺し事件、寿産院事件と続くわけだが、これらについては追々触れることにしよう。

(2009年6月12日/岸田裁月) 


参考資料

『日本猟奇・残酷事件簿』合田一道+犯罪史研究会(扶桑社)


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