花井お梅



無惨絵でお馴染み、月岡芳年の『花井お梅』

 花井お梅もまた高橋お伝と並ぶ毒婦として知られている。お伝もお梅も美人であったが故に大衆の好奇の眼に晒されて、数多の創作の題材になったのだ。もし醜女であったならば、これほど注目されることはなかっただろう。

 花井お梅は文久3年(1863年)、下総国(現在の千葉県)の士族、花井専之助の娘として生まれた。実家は貧しく、彼女は9歳の時に日本橋吉川町の岡田常三郎に養子に出されている。要するに売られたのだ。そして、15歳で柳町の芸者になった。器量良しの彼女はたちまち売れっ子になり、18歳で早くも置屋から独立している。20歳の時には養父と離縁し、花井姓に戻っている。つまり、今度はお梅が父親を買い戻したのだ。

 お梅には河村伝衛というパトロンがいた。その資金的援助を得て日本橋浜町に待合茶屋『酔月楼』を開業したのが明治20年(1887年)5月14日のことだ。ところが、どういうわけかお梅は営業鑑札の名義人を父親の専之助にした。これが間違いの元だった。元士族のこの男に客商売が出来る筈がないのだ。「士族の商法」という言葉があるくらいだ。また、父権意識が強い男で、何かとお梅を蔑ろにした。お梅が半ばノイローゼ状態に陥っていたことは想像に難くない。そして、5月26日に不満が遂に爆発し、大喧嘩の末にお梅は家を飛び出してしまう。

 さて、ここでこの事件の被害者たる八杉峯吉(34)が登場する。峯吉はお梅の雇い人で、三味線などを運ぶ箱屋をしていた。
 実は峯吉はお梅が芸者の頃からの知り合いだった。当時、お梅は沢村源之助という歌舞伎役者に貢いでおり、その源之助の付き人が峯吉だったのだ。
 或る時、お梅は源之助に「芝居に使っておくんなさいな」と高価な着物をプレゼントした。ところが、源之助はそれを芝居が跳ねた後に喜代治という芸者にあげてしまった。このことをお梅にチクったのが峯吉だと云われている。お梅の怒るまいこと。刃物片手に源之助の家に暴れ込んだ。この時は警察沙汰にはならなかったが、源之助との仲が終わったことは云うまでもない。チクった峯吉もまたクビになった。そして、お梅に雇われたのである。
 この事件からも、お梅はかなり気性の激しい女だったことが判る。

 お梅が峯吉を雇ったのは、おそらく己れのためにクビになったことに負い目を感じていたからだろう。ところが、峯吉は恩義に感じるどころか、父親たる専之助の味方になり、お梅の悪口を云って回る始末である。これには相当カチンと来ていたことだろう。飼い犬に手を噛まれるとはこのことだ。あんなに眼をかけてやったのに、恩を仇で返しやがった。彼女が殺意を抱いたとしても何ら不思議ではない。なにしろ己れを裏切った男の家に刃物を持って押し入る女なのだから。

 ところが、お梅の供述によれば、峯吉を刺し殺したのは正当防衛だという。つまり、父親との仲を取り持っておくれと峯吉に頭を下げたところ、俺の女になれば取り持ってやろうと襲われて、抵抗の挙げ句に出刃包丁で刺し殺してしまった…。
 しかし、この供述は腑に落ちない。お梅が峯吉を刺し殺したのは6月9日、場所は五月雨降りしきる大川端なのだ。出刃包丁が転がっているわけがない。お梅が携帯していたわけで、ハナから殺意があったと見るべきだろう。

 結局、お梅は死刑は免れ、無期徒刑の判決が下された。そして、明治36年(1903年)に特赦により釈放された。40歳になっていたお梅は芸者への復帰を望んでいたが叶わず、汁粉屋を経営するも間もなく廃業。その後、芸人に転じ、寄席で芸者踊りなどを披露していたという。箱屋殺しを実演していたという話もある。そして、大正5年(1916年)12月14日に死亡。53歳だった。

(2009年5月17日/岸田裁月) 


参考資料

『別冊歴史読本・日本猟奇事件白書』(新人物往来社)
『朝日新聞記事にみる奇談珍談巷談』(朝日新聞社)
『寄席囃子』正岡容(河出書房新社)


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