ロスコー・アーバックル
ROSCOE ARBUCKLE(1887-1933)

《主な出演作》
*デブと海嘯 (1916)
*おかしな肉屋(デブ君の女装)(1917)
*コニー・アイランド(デブ君の浜遊び)(1917)
*デブ君の入院(1918)
*デブの自動車屋
(1920)
*結婚年(1921)



チャップリンと共演するアーバックル

 ロスコー・アーバックルという名前のコメディアンを諸君は御存知であろうか?。「でぶ君」の愛称で我が国でも親しまれ、全盛期にはあのチャールズ・チャップリンと人気を二分にしたという。サーカス芸人だったバスター・キートンに映画入りを勧めたのも彼である。淀川長治氏によれば「ニコニコ大会」という当時の活動喜劇フェスティバルでは、アーバックル、チャップリン、ロイド、そしてキートンの4人のフィルムがかからないと観客は納得しなかったという。ところが、現在、喜劇王といえばチャップリン、ロイド、キートンの3人とされている。アーバックルは何処に行ったのだ?。

 ロスコー・アーバックル、通称「ファッティ・アーバックル」は1887年3月24日、カンサス州スミスセンターに生まれた。ホテルの雑役夫からボードヴィルの芸人に転身。150キロの巨体に似合わぬ鋭敏な動きで人気者となり、「ドタバタ喜劇の父」マック・セネットにスカウトされてキーストンに入社。キーストン映画名物のドタバタ警官隊「キーストン・コップス」の一員として活躍した後、主役に抜擢。チャップリンと共にキーストン喜劇を支える大スターへと成長する。



ヴァージニア・ラップ

 さて、ここでヴァージニア・ラップという無名女優が登場する。シカゴ生まれの25歳。写真で見る限り、清楚な感じの美人である。
 ところが、ケネス・アンガー著『ハリウッド・バビロン』によれば、その実体は清楚とはほど遠い。キーストン社での仕事を得た彼女は、誘いがあれば誰とでも寝た。そのためにスタジオの男の半数がケジラミをうつされ、仰天したセネットはスタジオを封鎖して、燻蒸消毒をしなければならなかった…。
 このケジラミ騒動に前後して、彼女はヘンリー・レアマン監督の愛人となり、そのいくつかの作品に出演する。これがウィリアム・フォックスの眼に止まり、新作のヒロインに抜擢される。このまま行けばスター街道まっしぐら、な筈だった。ところが、彼女はその新作に出演することはなかった。

 一方、アーバックルはというと、その頃にはセネットの下を離れてパラマウントと契約、長篇の製作に乗り出していた。契約金は当時としては破格の300万ドル。これで浮かれぬ者はいない。サンフランシスコのセント・フランシス・ホテルで盛大なるパーティが催された。しかし、このパーティーの後、アーバックルの新作は一切撮られていない。
 いったい何があったのか?。
 アーバックルがヴァージニア・ラップの殺人容疑で逮捕されたのである。



キーストン・コップス時代のアーバックル(右)

 でぶ君は予てからヴァージニア嬢にモノにしようと挑んでいた。しかし、彼女も一応は相手を選ぶようで、でぶの誘いには応じなかった。
 だから、セント・フランシス・ホテルでのパーティーは彼女をモノにするまたとない機会だった。パーティーといっても、12階のスウィートルームを3部屋続きで借りただけの、ごくプライベートなものだったからだ。それに移籍パーティーという名目があれば、まだ駆け出しのヴァージニアとしては招待を断るわけにはいかない。彼女は已むなく出席する。

 1921年9月5日月曜日。土曜日の夜遅くから始められたパーティーはまだ続いていた。ゲストは50人に膨れ上がり、パジャマとバスローブ、スリッパがけのホストは泥酔。ヴァージニアを含めた娘たちも御同様で、中にはトップレスで踊り出す者もいたという。
 午後3時を過ぎた頃、でぶ君は酒の勢いで意を決し、ヴァージニアの肩に手をかけてベッドルームへと押しやる。ドアを閉める際、見守るゲストたちにウインクすることも忘れない。
「このチャンスをずっと待っていたんだよ」
 そう云って、ガチャリと鍵をかける。

 数分後、ベッドルームからの金切り声でパーティーの喧噪は途絶える。ヴァージニアの友人、バンビーナ・デルモントはベッドルームに走るとドアの取っ手を掴んで叫ぶ。
「ヴァージニア、どうしたの!」
 返答はなく、異様な呻き声が聞こえるのみ。ただごとではないことを察知したゲストたちが激しくドアを叩くと、バタンと開いて、ズタズタのパジャマにヴァージニアの潰れた帽子を横ちょに被ったでぶ君登場。気まずかったのかクスクス笑い、ちょっぴり踊る仕草もしてみせる。ゲストたちが部屋を覗くと、ベッドの上には衣服を引きちぎられたヴァージニアがいた。
「あれを連れて帰ってくれ。うるさくてかなわん」
 なおも呻くヴァージニアに向かって、
「うるさい!。窓から放り出すぞ!」
 どうやらでぶ君はヴァージニア嬢の演技だと思ったらしい。俺を脅して金をせしめるつもりだ。そうはいかんぞ。このケジラミめ!
「私、もう死ぬわ…あいつがやったの…」
 ヴァージニアは3日間苦しんだ挙げ句に死亡した。検視の結果、死因は膀胱の破裂とそれに基づく腹膜炎と診断された。



タブロイド製「アーバックルズ・ボトル」


セント・フランシス1221号室:騒乱のあと

 と、ここまでが前掲『ハリウッド・バビロン』の記述をもとにした「事のあらまし」である。そして、これが当時のタブロイド誌や、果てはメジャーな新聞までもが書き立てた「真相」だった。記者たちは膀胱破裂の原因をアーバックルの変態性戯と決めつけた。曰く、拒絶されて腹を立てたアーバックルがコカコーラの瓶をぶち込んだとか、いや、シャンパンの瓶だったとか、実は氷で責めたのだとか。
 しかし、こうした報道は憶測の域にとどまり、確たる証拠があるわけではない。『ハリウッド・バビロン』の記述も信憑性に乏しい。例えば、事件が発覚した模様をアンガーはこのように記述している。

《検視官マイケル・ブラウンのもとに病院から不審な電話が入った。そこで何事が起きているのかと調べに行ったブラウンが目にしたのは、懸命なもみ消し工作だった。折りしもガラス容器を持った雑役夫がエレベータを降り、焼却炉に向かっていた。容器に中に入っていたのは、傷ついたバージニアの局部だった》

 少々劇的に過ぎる。とても真実とは思えない。
 他にも『ハリウッド・バビロン』には信憑性を疑わせる部分がある。例えば、左の写真を見開きで掲載して「セント・フランシス1221号室:騒乱のあと」とのキャプションを添えている。現場写真というわけだ。その生々しさに心が大きく動かされたが、アンガーの記述が正しくて、実際にもみ消し工作があったならば、このような現場写真が撮られている筈がない。
 思うに、この写真は当時のタブロイドか、あるいはアンガー自身によるデッチ上げなのだろう。
 ケネス・アンガー著『ハリウッド・バビロン』は、ハリウッドのスキャンダルを網羅した刺激的な作品だが、調べてみると随分と嘘が多い。ヴァージニア嬢の「ケジラミ騒動」の一件も、真実かどうか怪しいものだ。
 この点、コリン・ウィルソン著『世界醜聞劇場』はまだマトモだ。彼は「真相」をこのように推理している。

《ヴァージニアはトイレを我慢していた。そのために膀胱がぱんぱんだった。その体にアーバックルが全体重をかけてのしかかった。ヴァージニアの膀胱は風船のように破裂した》

 しかし、これも真実ではない。
 私が調べたところによれば、アーバックルはヴァージニア・ラップの死に関して責任はない。以下、その旨を順を追って論証する。



バンビーナ・デルモント


アーバックルの逮捕を伝えるハーストの新聞

 まず、先ほどの「真相」をもう一度読み返して頂きたい。当事者以外に実名の者が登場していることにお気づきであろう。そう。「ヴァージニア、どうしたの!」とドアの取っ手を掴んで叫んだ、自称「ヴァージニアの友人」、バンビーナ・デルモントこそ、先ほどの「真相」を警察やマスコミに語った人物なのである。
 ところが、この女、相当なクセモノなのだ。タチの悪いゴシップ記者で、これまでにもスターの尻尾を掴んでは喝りを繰り返していたという。ヴァージニアをアーバックルに接近させたのは彼女だとの説もある。つまり、このたびの事件の仕掛人は彼女だと云っても過言ではないのだ。

 では、どうしてそのような胡散臭い人物の話を鵜呑みにしてしまったのか?。
 答えは簡単だ。まず、マスコミとしては、事件は面白ければ面白いほどよい。その方が金になるからだ。そして、デルモントの証言は面白過ぎた。なにしろ、子供たちのアイドルが美女をハメ殺したのである。真実か否かは関係ない。マスコミは揃って足並みを揃える。揃えた甲斐はあった。アーバックルの記事は新聞の購買層を2倍に拡大する恩恵を齎した。新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストは当時のことをこのように述懐している。
「とにかくアーバックルのことを書けば売れた。今まで新聞を読んだことのない者もむさぼり読んだ。あんなに売れたのは後にも先にも初めてだった」

 かたや、検察はアーバックルの容疑に予断を持って臨んでいた(理由は後述)。とにかく、デルモントの証言を信じたかった。そして、これに基づき、アーバックルの訴追が決定された。
 しかし、検察も馬鹿ではない。裁判の準備を進めるうちに、彼女がハリウッドの要注意人物であることを知る。これには検察も愕然としたことだろう。なにしろ物証のない事件にあって、彼女の証言だけが唯一の決め手だったのだ。その証言が嘘八百とあっては、無罪になった時の恥の上塗りとなる。こうしてバンビーナ・デルモントは証言者リストから外された。
 彼女が証言台に立たなかったことは、彼女の証言がデタラメであったことを如実に物語っている。



ヴァージニア・ラップの墓


証人席のロスコー・アーバックル

  では、ヴァージニア・ラップは何故に死んだのか? この疑問に答える前に、彼女の悲惨な生い立ちについて触れておかなければならない。
 ヴァージニア・ラップ(RAPPE)は1895年(一説には1891年)、シカゴで私生児として生まれた。本名はラップ(RAPP)である。どうして語尾に「E」をつけたかというと、その方がフランスっぽくてエレガントに見えるということらしい。しかし、そのことにより「レイプ」を連想させる名前となったことがなんとも皮肉だ。幸の薄さがこんなところにも滲み出ている。
 11歳の時に母のメイベルが死に、祖母に引き取られた彼女は美しい娘に成長する。そして、多くの男に弄ばれる。16歳になるまでに既に5回もの堕胎手術を受けている。そのために、彼女は慢性の膀胱炎だった。
 ここまで判れば、膀胱炎が死の原因だったことが見えてくる。以下は法廷におけるアーバックルの供述である。

「その日、私は友人のメイ・トーブ(ビリー・サンデーの義理の娘)との約束がありました。パーティーはまだ続いていましたが、私は彼女と落ち合うために出掛けることにしました。午後3時頃のことです」

 ビリー・サンデーは禁酒法の成立に貢献した「元大リーガーの伝道師」である。酒飲んでどんちゃん騒ぎのパーティーから、その酒を禁止した男の娘に会いに行くとは、これまた皮肉なはなしだ。

「服を着替えるためにバスルームに入ると、ラップさんがトイレの前で倒れていました。吐いていました。私が彼女を抱きかかえると、また吐きました。腰を支えてトイレの中に吐かせました。それから寝室へと運び、ベッドの上に寝かせました。
 私はバスルームで着替えて、2、3分して戻ってみると、彼女は並んだベッドの隙間に転がり落ちていました。お腹を押さえていました。私は引き上げようとしましたが、一人では無理でした。それでデルモントさんたちを呼んだのです」

 皆に引き上げられたヴァージニアは取り乱して、己れのドレスを引きちぎり始めた。これが膀胱炎の発作に基づくものなのか、それとも単に酒癖が悪いだけなのかは判らない。とにかく、周囲の者は酒癖が悪いだけと判断。バスルームに連れて行くと、酔いを醒ますために浴槽の冷水に浸けた。
 おそらく、この一連の介抱の中で彼女の脆い膀胱が破裂したのだろう。しかし、アーバックルが悪いわけではない。みんな彼女が悪いのだ。

 ヴァージニアが入院したのは3日後の9月8日のことである。それまではホテルの医師にモルヒネを投与されただけで、ベッドの上に放置された。しかも入院したのはデルモントが呼んだ医師、メルヴィル・ラムウェルの診療所だった。総合病院ではない。産婦人科だ。
 どうにもおかしなはなしである。
 事件当時、ヴァージニアが妊娠していたとの噂もあり、そうだとすれば以下のような推理が成り立つ。
 またしても妊娠してしまったヴァージニアは、その堕胎費用を出させるためにお人好しのアーバックルに接近する。もちろん、すべてを仕組んだのはバンビーナ・デルモントである。ところが、肝心の席で具合が悪くなる。総合病院に入院するわけにはいかない。違法な堕胎がバレてしまう。そこでいつも堕してもらっているラムウェルのところに入院する。
 かなりの信憑性があるように思える。しかし、この説を証明する手立てはない。彼女が翌日の9月9日に死亡すると、ラムウェルが検視官でもないのに解剖し、子宮を除去してしまったのだ。
 ケネス・アンガーが『ハリウッド・バビロン』で指摘した隠蔽行為はたしかに存在した。しかし、それはアーバックルがしたことではない。違法な堕胎の発覚を恐れたラムウェル医師がしたことなのだ。



オリーヴ・トーマス

 さて、それではアーバックルはどうして、物証もないのに、いい加減な証言だけで起訴されたのか?(検察はどうして、アーバックルの事件に予断を持って臨んだのか?)。
 この問いに対しては、1年ほど前に起きたオリーブ・トーマスの事件及びその影響をもって答えなければならない。

 1920年9月10日、一人のうら若き女性がパリのホテルで塩化水銀を飲んで自殺した。彼女の名はオリーヴ・トーマス。清純だがお転婆な「アメリカの妹」として人気を博した国民的アイドルだった。しかも、彼女は大女優メアリー・ピックフォードの弟ジャック・ピックフォードと結婚したばかりだ。自殺の原因など到底考えられなかった。
 ところが、捜査が進むにつれて、彼女の意外な素顔が明らかとなった。彼女がパリに渡ったのは、仕事のためでも観光のためでもなかった。彼女は夜な夜な如何わしいナイトクラブに出没し、ヤクザ者たちとなにやら交渉していた。この情報を受けてマスコミは、以下のように憶測した。
「彼女の夫ジャック・ピックフォードはヘロイン中毒であり、彼女は夫のためにパリに渡り、ヘロイン調達に暗躍した。しかし失敗。責任を感じた彼女は、失意のうちに自殺した」
 ところが後日、さらに意外な事実が判明する。彼女の自殺の数週間前、FBIはスポールディングなる陸軍大尉を逮捕していた。彼は上流階級への麻薬の売人だった。その手帳に記された顧客リストを調べる捜査官は、そこに意外な名前を発見した。
「オリーヴ・トーマス」
 ジャンキーなのは夫ではなく妻の方だったのだ。売人が逮捕されてオリーヴはヘロインを求めてパリに渡る。しかし、入手できずに落胆し、禁断症状の中で自殺する。これが「アメリカの妹」オリーヴ・トーマスの死の真相だった。

 この事実を知った合衆国市民は愕然とした。そして、可愛い妹をジャンキーにした悪魔を怨んだ。
 ハリウッド。
 ハリウッドこそが清純無垢な少女を汚す悪の巣窟と看做された。以後、ピューリタンたちはハリウッドを「ソドムとゴモラ」に準え、風紀を紊乱する悪徳の都として糾弾した。『危険なハリウッド』なる小冊子が出回り、教会は映画を見ることさえ禁じた。
 そんな機運の中で起こったのがアーバックルの事件だった。アーバックルはたちまち悪魔の象徴と化した。衆愚は一斉に指を差した。
「あのでぶをリンチしろ!」
 そんなわけだから、アーバックルの有罪は予め決まっていたのだ。



アーバックルのマグショット

 しかし、陪審員は極めて冷静だった。物証がなく、証人もいいかげんであることを知ると無罪を評決。アーバックルに対して以下のような声明文を読み上げた。
「無罪でも氏には不十分である。我々は氏に対して重大なる不正を犯してしまった」
 確かに「無罪でも不十分」だった。ピューリタンたちはアーバックルを許しはしなかった。全国で彼の排斥運動が勃発した。ワイオミングではカウボーイたちがスクリーンに発砲した。コネチカットでは自警団を自称する婦人たちがスクリーンを引き裂いた。慌てた映画会社はアーバックルのフィルムを直ちに回収。このすべてを焼却した(我々が彼のフィルムをほとんど目にすることができない理由はここにある)。契約はもちろんすべて破棄。従来通りの友人はバスター・キートンだけだった。キートン曰く、
「あれはひどい冤罪だった。私はアーバックルを知っている。彼があんなこと出来る筈がない」
 キートンは彼に「ウィル・B・グッド」とでも改名することを勧める。「Will be good=きっと良くなる」の地口だ。これに従ったアーバックルは「ウィリアム・グッドリッチ」の名で数本の監督を務めた。しかし、世間はまだ忘れてはくれない。彼が街を歩くと、こんな野次が飛んでくる。
「Oh, Virginia. I`m coming !」
 こうしてアーバックルは酒に溺れ、次第に健康を害していく。

 事件から実に12年を経た1933年6月29日、我らが「でぶ君」はようやくワーナーから短編喜劇の仕事を依頼される。この祝いの宴がニューヨークで催された。その晩、帰宅した彼は心臓発作で急死。享年46歳だった。


参考資料

『ハリウッド・バビロン』ケネス・アンガー著(リブロポート)
『世界醜聞劇場』コリン・ウィルソン著(青土社)
『地獄のハリウッド』(洋泉社)
『ハリウッド、危険な罠』ジョン・オースティン(扶桑社)
シネアスト6『喜劇の王様たち』(青土社)
アサヒグラフ『ハリウッド1920ー1985』(朝日新聞社)


 

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