アナトリー・スリフコ
Anatoly Slivko (ソビエト連邦)



アナトリー・スリフコ


スリフコが撮影した映像


スリフコが保管していた被害者の靴

 アナトリー・スリフコが撮影した映像はいくつかの動画サイトで見ることが出来る。それは7分ほどの8mフィルムで、音声はない。編集したのはおそらくスリフコ自身ではなく、後にフィルムを入手した人物だろう。断片的で、カラーの中にモノクロが混じっていたりするからだ。
 ちなみに、スリフコは地元ではアマチュアの映像作家として知られていた。映画祭の作品賞を何度か受賞したことがあるという。

 映像は少年たちがバスから降り立つショットで始まる。 ボーイスカウトだろうか? 場所はのどかな森林地帯である。少年たちの首には赤いスカーフが巻かれている(左写真参照)。これはソビエトのボーイスカウト「ヤング・パイオニア」の制服なのだそうだ。

 少年たちが川辺や森の中を散策するショットがいくつか続いた後、2分を過ぎた辺りで問題の映像が登場する。警官の帽子を被った少年が左向きに座っている。両手は横にまっすぐに伸ばされ、紐で近くの木に縛られている。首も同様に縛られている。足首もまた縛られおり、そこからピンと張られた1本の紐が画面外に伸びている(左写真参照)。どう見ても異常な光景である。と、次の瞬間、少年の足首が紐で思いっきり引っ張られる。少年の身体は宙に浮く。
 ここで私は思わず「うわっ」と声を上げてしまった。目の前で起きている出来事が信じられなかったからだ。首を絞められた少年は悶え苦しんでいる。これは明らかな殺人行為ではないか!
 次のショットでは、紐から解放された少年が足だけをドタンバタンさせている。痙攣しているのだろうか? そして、間もなく動かなくなる…。

 ここで私は冷静になるために動画を止める。
 スリフコが1964年から85年にかけて7人の少年を殺害し、その模様を撮影していたのは事実である。しかし、彼はこの他にも36人もの子供の首を締めていたのだ。亡くなった7人は蘇生できなかったケースなのである。故にこの少年も後に蘇生した可能性がある。殺害現場と断じることは出来ない…などと、動揺する己れを宥めて動画を再生する。

 続きもこんなのばかりだった。
 台の上に立ち、自ら首に紐を巻く少年。するとスリフコが現れて、下の台を取り除く。少年は木の枝からブラーンと垂れ下がる。少年の遺体(?)を楽しげに抱えるスリフコ。真っ赤な布の上に安置された遺体(?)のそばには、十足ほどの靴が恰も会葬者の如く並んでいる。

 何だか前衛映画のような映像である。ケネス・アンガーの作品だと云われても違和感がない。
 ちなみに、スリフコは靴のフェティストでもあった。彼は被害者の靴を戦利品として大切に保管していた。

 次のショットではスリフコがまだ意識のある少年を抱きかかえている。そして、台の上に乗せ、首に紐を巻きつけて台を取り除く。悶え苦しむ少年。
 その生死が判らぬままに映像は次のショットに切り替わる。首に紐を巻きつけられた少年がアップでカメラを見据えている。その表情には恐怖心のかけらもない。足元には丸太が1本あるだけだ。スリフコはその丸太を取り除く。ブラーンと垂れ下がる少年。人はこれほど簡単に死ねるものかと思わせる奇妙な映像である。

 ここで一つの疑問が湧く。少年たちはこれから縛り首になるというのに、どうして抵抗しないのだろうか?
 実は彼らは自ら進んで縛り首になっていたのだ。スリフコが獲物にしたのは年齢の割に背が低い少年ばかりだった。地元でボーイスカウトのクラブを主催していた彼は、そうした少年たちに言葉巧みに近寄り、信頼を得た上で「背が高くなる方法があるよ」と持ち掛けたのだ。それが縛り首だったのである。
「最初は苦しいけど、すぐに楽になる。僕が蘇生させるので大丈夫」
 36人は大丈夫だったのだが、7人は大丈夫ではなかったのだ。

 次のショットはこの映像の中で最も痛ましい。台を取り除かれて首を吊られた少年が暴れ回り、隣の木に足をかけて生き存えようとするのだ。これをスリフコが慌てて妨害する。あくまで重力に従わせようとするのである。己れの体重もかけているようにも見える。

 その生死が判らぬままに映像は飛ぶ。次のショットはおそらくフェイクである。崖から落ちた少年の遺体が映し出されるのだが、その血糊が如何にもインチキ臭い。これはスリフコの創作だろう。彼が映像作家であったことも忘れてはならない。

 もう1つ首吊りのショットを挟んだ後、映像はいよいよ佳境に入る。遺体の損壊である。ノコギリを手にしたスリフコは、遺体の足の甲を靴の上からギコギコギコギコと切断し始めるのだ。これはかなりショッキングだった。足首を切るというのは判るのだが、靴の上から切るというのは思いも寄らなかったからだ。さすがは靴フェティストである。靴へのこだわりが尋常じゃない。
 この後、遺体の足首より下だけが燃えているショットを挟んで、首のない遺体の右膝を鉈で切断するショットで映像は終わる。いやあ、トンデモないものを見てしまいましたあ。後悔しきりである。


 アナトリー・スリフコは1938年12月28日、旧ソビエト連邦のスタヴロポリで生まれた。犯行時には妻帯しており、二児の父親でもあった。前述の通り、地元でボーイスカウトを主催し、映像作家としても知られていた。いわば地元の名士である。故に長年に渡って疑われなかったのだ。

 スリフコが死のオブセッションに取り憑かれたのは1961年、22歳の時だった。交通事故に遭遇した彼は、少年の悲惨な死体を目の当たりにした。その少年が身につけていたのが「ヤング・パイオニア」の制服だったのだ。それ以来、寝ても覚めても少年の死体が思い出された。バラバラになり、焼け焦げたあの少年の死体が…。
 スリフコがボーイスカウトを主催したのも、映像を撮り始めたのも、すべてこのオブセッションゆえだったのである。そして、うっかり殺してしまった場合には、遺体をバラバラにし、ガソリンをかけて火を放ち、あの事故現場を再現した。そして、それを見ながら自慰に耽ったのである。あな恐ろしや。


 1985年12月に遂に逮捕されたスリフコは、7件の殺人容疑で有罪となり死刑を宣告された。そして、1989年9月に銃殺刑により処刑されたわけだが、その数時間前にスリフコは、或る連続殺人事件についての意見を警察から求められたという。それは当時はまだ犯人の目星もついていなかったアンドレイ・チカティロの事件だった。

(2011年4月30日/岸田裁月) 


参考資料

http://en.wikipedia.org/wiki/Anatoly_Slivko
https://mccannexposure.wordpress.com/2010/09/03/anatoly-yelemianovich-slivko/
http://mydeathspace.com/vb/showthread.php?20113-The-home-videos-of-Anatoly-Slivko-serial-killer
http://viraldeath.com/?p=6820


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